第57話 好きな○○
「朝陽くん……好き……」
耳元でそんな声が聞こえ、朝陽はソファから飛び退いた。
「びっくりした……」
「それは私の台詞なんですけど……」
朝陽が座っていた場所の隣で冬華が驚いた表情を浮かべている。
夕飯を食べ終わり、冬華に洗い物を任せていたはずだが、いつの間にか時間が経っていたらしい。
お腹を満たしたことで眠気を誘い、ぼーっとしていたために朝陽は思わぬ接近に気付けなかった。
そして、おそらく大事な言葉も聞き逃してしまっていた。
「ごめん、さっきのもう一度言ってくれないか?」
もしかしたら、今からとてつもなく大切な話をされるかもしれない。そんな予感がして、朝陽はソファに座り直して身構えた。
対する冬華はコホン、と一つ咳払いをして場を改める。その表情はどこか真剣な様子だった。
「朝陽くんの好きな食べ物を教えてください」
「……はあ」
「そ、そんなに嫌な質問でしたか?」
「いや、そういうため息じゃない。気にしないでくれ」
冬華があたふたと不安そうに見つめてくるのを、朝陽は首を振って否定する。
思わず吐き出したため息は、勝手に勘違いして浮かれていた自分に向けてだ。
「それで、好きな食べ物だっけ?」
「はい。是非、教えてほしいです」
「いいけど、またどうして急に」
「それは……そういえば、聞いたことないなって」
冬華がふいに目を逸らしたのが気になるが、答えを渋ることでもない。
「好物ならフランス料理だな。親の影響で好きになった」
「なるほど、もう少し具体的に教えてもらえますか?」
「具体的に……ガレットとか、ブイヤベースとか? 普通にハンバーグとかも好きだな」
朝陽が答えると、冬華は熱心に携帯でメモを取る。
そこまでする目的は何だろうと考えていると、再び冬華から質問が飛んできた。
「甘いものはどうでしょう?」
「甘いのも好きだぞ。お菓子とか、ケーキとか……」
朝陽は思い付いたものを列挙していき、それから最後に一つ付け加える。
「チョコは特に好きかな」
そう答えると、冬華がパッと顔を明るくする。
どうやら満足のいく結果が得られたようで、質問タイムはこれにて終わりになった。
メモ帳代わりにしていた携帯をポケットに仕舞い、冬華は帰りの支度を始める。
「……冬華の好きな食べ物は?」
「私のですか?」
「そう。卵料理が好きなことは知ってるけど、それ以外はあまり知らないからさ」
少しだけでも長く冬華と一緒にいたい。そんな気持ちが働き、朝陽は先程の質問を返してみた。
思惑通り、冬華は玄関に向かおうとした足を止める。それから手を顎に当て、考える素振りを見せた。
「好きな食べ物……」
うーん、と唸る姿に朝陽はクリスマスイブの日のことが頭をよぎった。
卵料理を好きな理由を聞いて、今と同じように冬華は時間をかけて考えていた。
あの時の答えは、お母さんの得意料理だったから。
好き嫌いが幼少期に定着する傾向があると知っていた朝陽は納得するとともに、冬華の憂いを帯びた表情から暗い過去を何となく感じ取った。
すなわちそれは、家庭の崩壊。その原因は一番辛い形として本人の口から語られた。
しかし、冬華の心を覆っていた冷たい氷はもうすでに溶けている。いや、溶かしている。
「全部好きですよ。朝陽くんの作る料理なら全部」
そう言って、冬華はやんわりと優しい笑顔を浮かべた。
「……ありがとう」
再び騒がしくなった胸の鼓動を朝陽は深呼吸をして落ち着かせる。
すると、入れ替わるように電子音が鳴り響いた。どうやらそれは冬華の携帯からのようで、届いたのは一通のメールだった。
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