第二章 氷室冬華の付き合い方

第56話 雪解けの後で

 

 雨が降り、風が吹き、雷が鳴り、雪が積もる。

 そんな厳しい冬の猛威を乗り越えた先には必ず春が訪れる。


 しかし、季節はまだ冬の真っ最中。

 それでも地上を照らす眩しい太陽は、冷え切った身体を暖かく包む。


 一夜にして白く染め上がった町は、温かい熱に溶かされ本来の姿を取り戻していた。


 その一方で、熱を上げすぎ燃え尽きてしまった男は枕に深く顔を埋める。


(俺は離れないとかクサすぎるだろ……)


 昨日の出来事を思い返しては、朝陽は己の言葉と行動にひたすら悶え続ける。

 勢い任せに放った言葉というのは、後から冷静になった時に羞恥心を伴うものだ。


 正直な気持ちを伝えたことに、後悔はしていない。

 ただ、それとこれとはまた別の話。

 恥ずかしいものは恥ずかしい。


 自分の心がこんなに乱されるのは、朝陽にとって初めてだった。

 右手にはまだ、冬華の頭に触れた感触が確かに残っているし、脳裏には冷たい涙と温かな笑顔が焼き付いている。


 そうして、ようやく自覚した恋心がじわじわと朝陽の胸を焦がす。

 ピンポン、と来客を伝えるインターホンの音が鳴って、自然と頬が緩むのだからこれはもう重症だろう。


 意味もなく鏡の前で身嗜みを整えてから、ゆっくりと玄関の扉を開ける。

 その先に佇む可愛らしい少女を、朝陽は平常心を保ちながら迎え入れた。


「今日はいつにも増して囲まれてたな」

「みなさんに心配をかけたようで、申し訳ない気持ちでいっぱいです」


 まるで昨日の出来事が幻想だったかのように、冬華は至って普通の様子だった。


 内心ドキドキが止まらない朝陽をよそに、広々としたキッチンで何気ない会話が続いていく。

 こうしてお喋りをしながら滞りなく調理が進むのは、冬華の腕が確実に上達している証拠だろう。


 数十分後、テーブルには色とりどりの料理が並んだ。

 その中で、本日のメインディッシュとなる目玉料理が際立つ。


「凄い……本当に、ソレイユルヴァンのスープと変わらない味がします」


 カップに注がれた玉子スープを一啜りして、冬華は目をキラキラと輝かせる。


 今日はこのスープを作ると朝陽は決めていた。

 それは、冬華の暗く冷たい過去を聞いて思い至ったことだった。


 家庭環境の複雑さと起こってしまった悲劇は、冬華の心を固く厚い氷で覆い隠した。一方で、そこには確かに幸せな思い出もあったと聞く。

 その一つが、soleilソレイユ levantルヴァンであり、火神家特製の玉子スープなら。ほんの少しでも、この温かい料理で心の傷が癒えるなら。

 一刻も早く、冬華に味あわせてあげたいと朝陽は強く思ったのだ。


「朝陽くん、ありがとうございます。きっと、気を使ってくれたのですよね」

「まあ、うん。余計なお世話だったらすまん」

「いいえ、とっても嬉しいお世話ですよ」


 どうやら気遣いがバレていたらしく、冬華はニコリと淡い微笑みを浮かべる。


「私、そういう朝陽くんの優しいところが……」

「ところが?」

「あっ、いえ……なんでもないです」

「それ、一番気になるやつ」


 朝陽が続きを促すと、冬華は頭をぶんぶんと横に振る。


「気になる」

「内緒です」

「最初の一文字」

「それは意味があるんですか……」


 しつこく食い下がった甲斐があったのか、冬華はしぶしぶ口を開いた。


「……す」

「……す?」

「最初の一文字です」


 それ以上は何も言わず、冬華は再びスープに手を伸ばした。

 いつの間にか日常となった光景を見つめながら、朝陽はふと数か月前から記憶を遡る。その思い出のほとんどに冬華の姿があった。


 他人を拒絶し、心を閉ざした少女は氷の令嬢と呼ばれていて。それでも関わりを持てば、どこにでもいる普通の女の子で。冷たい氷の裏には、陽だまりのような笑顔が咲く。


(やっぱり恋だよな……)


 氷室冬華が好き。

 そう自分の気持ちを再確認すると、ちょうど想い人と視線が重なる。


「やっぱり朝陽くんの料理は最高ですね」


 そんな嬉しい言葉とともに浮かんだ可愛らしい笑顔を見て、朝陽は胸が跳ねる思いがした。


 昨日から同じようなことが何度もあった。

 冬華の些細な一言や行動に、心が静かに揺れ動くのだ。


 恋をすると世界が変わる。

 そんな俗っぽい言葉が真実として朝陽に迫っていた。


 ふとした瞬間に冬華を思い浮かべてしまったり。

 何気ない会話の中でも変に意識してしまったり。

 気づけばその端正な美貌を目で追ってしまったり。


 一度その感情に気付いてしまったら、人はそう簡単には戻れない。


「朝陽くん、顔赤くないですか?」

「……気のせいだよ」


 そう誤魔化しながら、朝陽は目を逸らす。


 冬華が先程言いかけた言葉、それが自分と同じ気持ちだったら。

 そんな淡い期待がじんわりと身体を熱くする。


 しかし、朝陽はその恋心を胸の奥底に仕舞い込んだ。


「ごちそうさま」

「ごちそうさまです。スープの作り方、また教えてくださいね」

「そうだな。今日だけじゃ到底覚えれてなかったし」

「むっ……次は完璧に覚えて見せます」


 朝陽がからかうと、冬華の頬が僅かに膨らむ。

 それは普段と変わらぬやり取りで、相手に対する想いは違ったもの。


 まだ二人は高校一年生、時間はたっぷりとある。

 今はまだ、友達として。

 初めて芽生えた感情にゆっくりと向き合っていこうと、朝陽はそう決めていた。

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