第58話 マイペース
「それで日菜美がひっくり返ってさー」
「……へえ」
放課後、千昭とファミレスに来たのはいいが、朝陽のテンションはいつになく低い。意味もなくぼーっと虚空を眺めては、時々テーブルに突っ伏して両腕に顔を埋める。
その様子は心ここにあらずといった感じで、千昭が眉をひそめて、やれやれと呆れるくらいには参ってしまった。
「すいませーん、この中にお医者様は――」
「おい、何しようとしてる」
「おっ、朝陽復活。急に倒れたから病気かと思ったぜ」
「倒れてねーよ。ただ寝不足で眠いだけ」
「最近そんなのばっかだな。健康優良児の朝陽らしくない」
「……ふわぁ」
「うわー、これは重症っぽい……」
千昭が若干引き気味になっているが、朝陽は反応する気力がない。
思い出すのは昨日の夜、冬華のもとに届いた一通のメール。
差出人は立花香織。
その名前に、朝陽は覚えがあった。
――来週から冬華お嬢様の家政婦として復帰させていただくことになりました。
そういった内容のメールを冬華は驚きとともに、どこか浮かない顔で見つめていた。
冬華としては食事を始め、一人暮らしをしている上でかなりの助けになるはずだが、何か思うところがあるのだろうか。
その日はもう夜遅くなっていたので解散となり、朝陽の中で複雑な気持ちが残った。
家政婦の復帰は間違いなく冬華のためになる。しかし、それは必然的に冬華が朝陽の家に来なくなる可能性を秘めていた。
好きな人と毎日一緒に食卓を囲む。そんな夢のような時間は当たり前ではないとわかっている。
それでも残念に思ってしまうのは仕方がなかった。
「わかったぞ朝陽。お前、来週が楽しみで眠れないんだろ」
千昭がズバリ、と指を差して得意げな顔をする。
来週といえば、冬華の家政婦の復帰。
それは千昭の知るところではないし、朝陽が楽しみにしていることでもない。
「見当違いだ」
「なーんだ。来たる二月十四日に一喜一憂してるのかと思ったぜ」
「……十四日?」
「いやいや、流石にわかるだろ」
ほら、と千昭が差し出してきた携帯のカレンダーを見ると、ちょうど一週間後の二月十四日に印が付いている。そしてそこには赤色でバレンタインデーの文字が。
「そういえば、そんな日があったな」
「でた、興味ないねムーブ」
「なんだそれ」
「とある有名なゲームの主人公の口癖」
「それは知ってる」
聞きたいのは、言葉の意味だ。
しかし、千昭に詳しい説明をする気はないらしい。
「まあ、去年も朝陽はすぐ帰って、我関せずって感じだったもんな」
苦笑いを浮かべる千昭は、懐かしそうに過去を振り返る。
去年もその前も、恋愛とは無縁だった朝陽はバレンタインデーとも無縁だった。
しかし、今年はそうも言ってられない。
そんな朝陽の心を読み取ったかのように、千昭はニヤリと口を開いた。
「でもさ、今年は氷室さんからチョコもらいたいんじゃない?」
「……そうだな」
「うんうん、そうだよな……って、ん? あれ? あれあれあれあれ?」
あまりにも自然な朝陽の肯定に、千昭の目がまん丸に見開かれる。
その後、質問攻めが待っていたのは言うまでもない。
しかし、朝陽は至って冷静に話を進めた。
好きだと思った、たったそれだけ。
特別な瞬間があるわけではない。
気が付けば、冬華を好きになっていた。
「へーっ、あの朝陽が……ほーう……」
朝陽の話を聞いて、千昭は感慨深そうにうんうんと頷いていた。
「で、告白しないの」
「……は?」
「だって、氷室さんのことが好きって気付いたんだろ? だったらもう告るだけじゃんか」
「そんなにすぐ告白する奴なんていないだろ」
「そうか? 割といると思うけど」
「例えば」
「俺」
「そういやそうだったな」
何度も聞かされた千昭と日菜美の馴れ初めを思い出し、朝陽は呆れ交じりに苦笑する。
しかし、誰もがバカップルと同じように自分の気持ちを曝け出せるわけではない。
多くの人はたった二文字の"好き"という感情を伝えるために果てしなく長い時間を費やすのだ。そもそも告白をしないという選択肢を選ぶ人さえ、自分の気持ちを隠してなかったことにする人だっている。
恋愛は人生における難問だ。
様々な要素が複雑に絡み合う難しい問題。
それは、自分の気持ちの問題だったり、相手の気持ちの問題だったり、時には第三者の気持ちの問題だったり。
「気持ちを伝えて返事を聞く。告白ってたったこれだけなのにな」
「実際はそう単純じゃねえよ。相手の気持ちも考えなきゃいけない」
「と言いますと?」
「望んでない好意は迷惑って話、よく聞くだろ」
「それに関してはノープロブレムだと思うぞ」
「……なんでだよ」
「前も言ったけど、二人の距離感は特別近いって。つまり、そういうことじゃねーの?」
「それは……」
それは、違う――とは面と向かって否定できなかった。
確かに、冬華は朝陽に対して、他とは違った特別な距離感で接してくれているかもしれない。
ただそれは、決して恋愛的な感情からなるものではない。そう朝陽は自虐的に受け止めていた。
冬華の話を聞いて、冬華の涙を見たから考えてしまうのだ。
偶々、手を差し伸べたのが自分だったから。
偶々、特別な関係を築けただけ。
そこに、付け込むような真似はしたくない。
「まあ、恋愛は自分のペースでするのが一番だな。俺は余計なことせず応援するよ」
「そうしてくれると助かる」
朝陽としてはこれが初恋。
だからこそ必要以上に慎重になる。
思うところは多々あるが、一番はやはり冬華の気持ちだった。
特別視してくれるのは嬉しい。しかし、それは手を差し伸べてくれた隣人として。
朝陽は氷の令嬢ではなく、氷室冬華に恋をした。
冬華にもお節介な隣人としてではなく、火神朝陽として好意を抱いてほしい。
そうして初めて、この気持ちを伝えようと朝陽は考えていた。
「もしかして、邪魔するなって釘を差すため俺に話した?」
「……そんなことはない」
「目を逸らすな。絶対それが目的だったろ」
千昭が不満気に口を尖らせるのを、朝陽は苦笑いを浮かべながらなだめる。
「まあ、少しアドバイスを貰おうかとは思ってるよ」
「いいね、そうこなくっちゃ! 朝陽イケメン計画再始動だ!」
千昭はいつもの如く、ニヤニヤと憎たらしい笑みを浮かべる。
やはりウザったらしいが、一転して朝陽の心は晴れやかだった。
人がやたらと恋バナをすることに、朝陽は今となって理解を示す。
溢れんばかりのこの感情を胸に秘め続けるのは難しい。だから、誰かと共有する。
好きだという気持ちを言葉にすることで、自分自身にその恋心を確認するように。
「日菜美にはまだ内緒にしてくれよ? 俺のタイミングで話すからさ」
「合点承知の助。
含みのある言い方に疑問を持ちつつも、朝陽は気にしないことにする。
コップについだ水を飲み干すと、残った氷が音を立てた。
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