第36話 氷の令嬢VS太陽の男
田舎町に佇む個人経営の喫茶店を思わせる、質素で素朴な外観を前に足を止め、年季が入った木製の扉を開ければ途端に別世界へと
つい先程までは、煌びやかなイルミネーションが輝く大都会の繁華街を歩いていたはずなのに、目に映るのは緑を基調とした自然の色ばかり。
その中で、中心に飾り付けられた特大のシャンデリアは唯一無二の存在感を放ち、薄暗い店内を余すことなく照らす。
それはまるで、深い森の中に差し込む一筋の光。
三ツ星レストラン、
実家に続いて、第二の家とも呼べるフレンチ料理店に客としては数年ぶりに訪れた朝陽は、何も変わっていない店装に懐古の念を覚えつつ、その記憶の中に満面の笑みを浮かべる男の姿と全く表情が読めない女の姿を見つけて頬が引き攣った。
「何も起こりませんように……」
名前を伝えて案内された席に座りながら、誰にも聞こえない声で小さく呟く。
『友達と行く』
簡潔に、端的に、ありのままの事実を返信した。
だから、誤解はされないはずだ。
第一、年一番の繁盛期の最中にそれぞれ持ち場を離れられるはずがない。
そんな事を自分に言い聞かせながら視線を前に向けると、対面に座る少女が目と首を忙しく動かして、グレージュの髪を左右に揺らしていた。
無邪気な瞳で店内を眺めている冬華の姿は実に子供らしく、嫌な予感がよぎって見構えた身体が弛緩する。
「昔と何も変わってないだろ?」
「そうですね……とても、懐かしい気持ちがします」
薄っすらと笑みを浮かべる冬華の表情に憂慮の色は見えない。
懐かしい、と振り返った過去が良い思い出であるならば、今日ここに連れて来て良かったと思える。
今のところ、朝陽が危惧していた展開が起こる様子もなく、腰を落ち着けて食事を楽しめそうだった。
「こちら、本日のコースになっております」
「あっ、ありがとうござい……ます?」
コツコツ、と足音を響かせ近づいて来た人物に対して、丁寧に頭を下げた冬華の言葉が不自然に途切れた。
一方の朝陽はというと、頭を下げるどころか、天を仰いで大きなため息を一つ。
心の中で、フラグの回収が早すぎると悪態をつく。
「……何で父さんが接客してるんだよ」
「えっ……? お父さん、ということは……」
「どうも、
手短な自己紹介と共に、ニカッと白い歯を覗かせる長身の男は、同じく真っ白なシェフコートを着ている。
ウェイターの制服は黒を基調としているが故にかなり浮いているし、そもそもここは彼のお店なので目立たないはずがない。
世界でも名が知れた一流シェフの登場に、優雅にワイングラスを傾けていた紳士淑女は騒然となり、従業員は揃って目を丸くして足を止めた。
「すいませんね皆さん、いきなり登場しちゃって。我が息子がようやくガールフレンドを連れて来たもんで、居ても立ってもいられずに厨房を飛び出した次第です」
「おい、なに勝手な――」
「すこーしばかり、お話したらすぐに戻りますんで! あっ、サインですか? そちらはコースに入ってないんですよ、申し訳ないっ!」
落ち着いた大人の空間だったはずの店内が、太陽の様に明るくて熱い男の登場で雰囲気がガラッと変わる。
ただ、周りを見れば皆等しく笑顔に溢れ、誰一人文句を言う人はいない。
この異常で不思議儀な光景が、火神和明という人物が持つ多大な人望の証明なのだろう。
「お嬢さんのお名前は?」
「ひ、氷室冬華です」
「そうか、氷室さんというのか! 日頃、うちの息子が世話になってるね」
「いえ、お世話になっているのは寧ろ私の方で……」
「いやー、良く出来たお嬢様だ! 朝陽、素晴らしい女性を連れて来たな。これで火神家は安泰安泰!」
ワハハハ、と豪快に笑う和明の勢いに気圧されて、冬華が困惑の色を浮かべた表情で無言のSOSを送ってくる。
しかし、朝陽は同じく無言で首を横に振るしかなかった。
過去一度とて、火が付いた父親を止められた試しがない。
料理人の道を外れ、別の道へと歩むことを決めた時だって、朝陽一人ではこの熱い男を説得できなかったのだ。
「父さん、いったん落ち着こう。冬華が困ってるだろ」
「本当だ、これは申し訳ない。朝陽があまりに綺麗な彼女を連れてきたもんだから、父さんついつい興奮しちゃって」
「おい、さっきから勝手に話を進めるな。俺達はそういう関係じゃない」
「何を照れているんだ朝陽。氷室さんも顔を真っ赤にしちゃって。二人とも初々しいなー、おじさん昔を思い出しちゃうよ」
再びワハハハと愉快な笑い声を響かせる和明に、一応は立ち向かってみたものの、やはり止められる気が全くしない。
"氷の令嬢"ならば和明に一矢報えるのではと思ったが、冬華は冷たい視線を浴びせるどころか俯いてプルプルと震えてしまっている。
やはり、この状態の和明を鎮火できるのは世界でただ一人だと、朝陽は再認識すると共に抵抗することを諦めた。
「ごめん、冬華。もう少しすれば厨房に帰ると思うから、それまでは我慢してくれ」
「わ、わかりました……」
どんなに長く見積もっても、五分以上は厨房を空けれられないはずだ。
今は完全に、人の話を聞かない厄介なおっさんだが、三ツ星レストランを経営する一流シェフであることは間違いない。
この忙しいシーズンの最中に私情で使える時間は限られている。
ただ、その五分が途方もなく長い。
「氷室さんは朝陽のどういうところに惹かれたのさ」
「えっ、そ、それは……」
「あと、二人の馴れ初めも聞かせてほしいな。今まで朝陽に恋人のコの字すらなかったから気になってしょうがないんだよね」
「あっ、あの、ですね……その……」
朝陽の隣に図太く座った和明は、ありもしない事を次々と冬華に質問している。
対する冬華は何とか否定しようと試みているが、完全に和明の勢いに押されてしまっていた。
頼むから、早く帰ってくれ。
そんな思いが、目を合わせた冬華と通じ合った気がした時だった。
「……和明、うるさい」
抑揚のある心地良いクラシック音楽が流れる店内で、一定の波長を響かせる女性の声がした。
その凛とした声の主を見て、朝陽は複雑な表情を浮かべ、冬華は困惑の色を覗かせる。
そして、これでもかと燃え盛っていた和明は一気にヒートダウンした。
「あっ、はい。すいません」
「厨房、戻って。みんな困ってる」
「えっ、でもあと三分くらいは……」
「なに?」
「今すぐ戻りまっす!」
随分と上下関係がはっきりとした会話を最後に、和明が一目散に料理人の聖域へと戻っていく。
その後ろ姿は何とも情けないというか、頼りないというか。
厨房に戻ればまたさっきの暑苦しい炎が復活すると思うと笑えて来る。
ただ、実際に笑みを浮かべられる状況ではなかった。
山火事を一瞬で鎮火した女性は、さっきまで和明が居た朝陽の隣に座ると、ニコリともせず口元だけを動かす。
「初めまして、火神透子です」
本業は朝陽の母、副業でパティシエをやってますという声が、どこからともなく聞こえた気がした。
名前だけの端的な自己紹介を済ませた母親を、朝陽はチラリと横目で覗き見る。
表情筋が死んでいるのかと心配になる真顔に感情が籠っていない淡々とした声音。
どこか、少し前の冬華を思わせる母親の登場に、朝陽は再び大きなため息をつくことになった。
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