第8話 最後のお節介


 ゴム手袋の表裏やスポンジの使い方、他にも細かいツッコミ所はあったが口には出さずに後ろから見守る。

 暫くすれば、料理に少しでも精通している人間なら一目で分かるレベルで冬華の洗い物に素人感が滲み出ていた。


 完璧超人などと謳われている手前で考えづらい事ではあるが、"氷の令嬢"はもしかすると料理ができないのではないか。

 

 その疑惑を確証に近づける要素はいくつかある。


 一人暮らしをしているはずが、手慣れていない洗い物。

 何度も響き渡る可愛らしい腹の虫の鳴き声。

 そして最後に、昼食はいつも学食で食べているという噂話。


 噂に関しては、令嬢らしくお金に物を言わせているのかと思っていた。

 別に、弁当を一度も作って来なくとも何ら不思議な事ではない。

 

 ただ、発想を逆転させれば弁当をと考える事もできる。


「別に隠さなくていいだろ。今時、料理ができない女子なんて珍しくない」

「……できないわけじゃないです」


 冬華が男が料理をすることに対して偏見がないと言ったのと同じく、朝陽も性別によるくだらない偏見は一切ない。

 実は"氷の令嬢"が料理を苦手としていると言われても、だから何だといった心境だ。

  

 しかし、冬華としては色々とプライドがあるようで、はっきりとした返事はせずに黙り込んでしまった。

 洗い物を止める様子はなく、一人黙々と汚れを落とすのに躍起になっている。

 その様子が実に力任せで危なっかしく、経験者としては怪我をしないか気が気でない。


「やっぱ俺が――」

「私がやります。火神さんは向こうで先に勉強を」


 もはや提案することすら許されず、食い気味に主張した冬華がビシッ、とリビングを指差して移動を促してくる。


 断固としてシンクの前は譲らない姿勢に、これ以上何を言っても聞いてくれる気がしない。


(律義すぎるのも考え物だな……)


 四苦八苦してカレーの頑固な汚れと格闘している冬華を前に、朝陽は自然と苦笑いを浮かべた。

 

 一度借りを作れば人間関係は嫌でも続く。

 恐らく冬華はその事を危惧しているのだろう。


 そうでなければ、この状況に説明がつかない。

 

 再び"氷の令嬢"に戻るため。

 不本意な形で関わりを持ってしまった朝陽との関係を断ち切るため。


 こうして異性の家にあがってまで勉強の世話を焼き、ぎこちない手付きで洗い物を行っている。


「自炊云々はどうでもいいけどさ。しっかり食事はとったほうがいいぞ。食べることを疎かにすればいずれ身体にガタが来る」

「……何ですかそれ」

「最後のお節介だ」


 この際、何と思われたって関係ない。

 文字通り、最後のお節介。

 

 上から目線で、説教臭く、一方的に。それでいて、短い関わりの中で生まれた心配の気持ちから言葉を掛ける。


「また倒れられても困る。飯を食え、それだけだ……まあ、これも爺ちゃんの受け売りなんだけどな」


 言いたいことは言った。

 後から少しカッコつけすぎたかと頬が少し熱くなったが、どうせ明日になれば途切れる縁。特に気にする必要はないだろう。

 いくつか残っている問題を教えてもらい、最後に玄関まで見送るだけ。


 少しの間が空いて、朝陽はチラリと横目でキッチンの方を覗き見た。

 そこに丁度洗い物を終えて、こちらに向かってくる冬華の姿が目に入る。

 

「……そうですね。肝に銘じておきます」

 

 誰に対しても極端に距離を取り、必要以上の会話はせず、表情はいつも真顔のまま変わらない、氷の様に冷たいお嬢様。

 

 そんな"氷の令嬢"にほんのりと淡い微笑が浮かんでいた。

 

(……何だよその顔)


 初めて目にした冬華の笑顔。

 

 普段とのギャップからか、それとも単純その美貌からか。

 朝陽の胸の鼓動は静かにそのスピードを速め、視線はどうしようもなく釘付けになってしまう。

 

「……私の顔に何かついていますか?」

「いや、氷室も普通に笑えるんだなって」

 

 素直な感想を口にすれば、一瞬はっとした表情を浮かべた冬華が直ぐにいつもの真顔に戻る。

 その切り替えの速さについていけない頬の色だけが、まだ仄かに赤く染まっていた。


「……私だって笑うことくらいありますよ」

「へー、知らなかった。年中無休で真顔なのかと」

「私を何だと思ってるんですか……」


 心外だ、と言った風に深めのため息をついた冬華に"氷の令嬢"と答えようとしてやめた。

 

 今はもう、目の前の女の子に噂や評判から形成したイメージは当てはまらない。

 

 不思議な縁で少しだけ関わりを持てば、普通に会話が続き、いくつかの表情を浮かべ、時には笑顔だって見せる。


 これと言った感情を持たず、あっさり割り切っていた"最後"が少し残念に思えてしまうほどには、脳裏に焼き付いた微笑みに特別な価値があった。

 

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