第98話 二人の世界
とある夏の一日のこと。
燦々と降り注ぐ陽光が、マンションの一室を照らす。
網戸から爽やかな風が吹き込み、風鈴が涼しげな音色を奏でた。
「……暑い」
朝陽はうちわを仰ぎ、夏の猛暑に辟易する。
ソファに座ってテレビでも見ようとしたのだが、あまりの暑さにすべての気力を奪われてしまった。リモコンを操作するのもかったるい。とにかく動きたくない、そもそも動けそうになかった。
その原因は、すぐ隣に転がっている。
「暑いですね」
同調しながらも、その表情はちっとも暑がっていない。
「冬華」
名前を呼ぶと、太陽よりも眩しい笑顔が浮かぶ。
「なんでしょう朝陽くん」
「ちょっと近くないか?」
「ううん、普通です」
普通、というにしては距離が近い。
冬華は朝陽にぴったりとくっつくようにして寄り添っていた。
互いに薄い素材の半袖を着ているため、触れ合う肌から直接体温が伝わる。
「もう少し離れないと冬華が暑いだろ」
「私は大丈夫です。……くっついてたらダメですか?」
「いや、そのままでいいよ」
上目づかいで聞かれてしまえば、断る選択肢はない。
あの日から、数日が経つ。
晴れて恋人になった二人は蜜月を過ごしていた。
大きな変化は二つ。
一つは夏休み中、冬華がずっと家に入り浸るようになった。
朝昼晩、とまではいかずとも、昼前にはインターホンが鳴り、玄関に出迎えるのが日常化している。
ご飯時になれば真っ先に冬華がエプロンをして、その姿はさながら新妻のような雰囲気があった。
そしてもう一つ、冬華は今まで随分と我慢をしていたらしい。
「えへへっ、朝陽くんお日様の匂いする」
「そりゃ現に太陽が当たってるからな」
「この匂い、温かくて好きです」
朝陽に愛を伝え、朝陽の愛を求める。
数えきれない"好き"を、冬華は言葉にした。
朝陽もまた、その想いに応じる。
それだけの気持ちが二人にはあった。
しかしまさか、ここまで甘えたがりになるとは想像していなかった。
身体の向きを変え、膝枕のような形になる冬華。
その髪を優しく撫でてやれば、ふにゃりと幸せそうに微笑む。
しばらくして手を止めると、自ら頭を擦り付けてきた。もっともっとと瞳で訴えている。
可愛らしくねだる姿につい悪戯心が芽生え、朝陽はじっと上から見つめることにした。
冬華は最初、口を尖らせた。意地悪しないで、と頬を膨らませる。それでも朝陽は目を離さない。やがてはぷいっ、と冬華が視線を逸らした。その頬は薄紅色に染まっている。だんだんと羞恥心が芽生えたのだろう。朝陽の腹部に顔を埋め、お返しとばかりにぐりぐりと押し付けた。
これ以上は拗ねてしまいそうなので、朝陽はまた冬華を撫でてやる。すると満足したように、あどけない笑顔が戻った。
そんな甘い時間が毎日、ずっと続いていた。
「そうだ、まだ洗濯物取り込んでなかったですね」
思い出したように冬華は立ち上がり、軽い足取りでベランダに出る。
これも日常となった光景だ。ベランダに干した洗濯物を冬華が取り込み、朝陽が畳む。その逆もあったり、一緒にやってみたり。
朝陽も腰を上げようとしたが、ポケットに入れたスマホの振動に気付く。
確認すると、千昭と日菜美から遊びの誘いが来ていた。
バカップルの二人にはすでに、告白の顛末と、お礼の言葉を伝えている。
まるで自分のことのように応援してくれた、喜んでくれた。その温かさに、改めて友人でよかったと感じた。しかし、ダブルデートの誘いは思いのほか気恥ずかしい。
二つ返事で快諾しそうだが、ひとまず冬華に聞くとして、他にもメッセージは届いていた。
火神家のグループにいくつか通知があり、少しは実家に顔を出しなさいとのこと。
透子と和明にはまだ、交際の報告を済ませていない。隠すことではないのだが、両親の性格を思い出せば気が引ける。すでに冬華と面識があり、気に入っている節があるので、騒ぎ立てる未来が容易に想像できた。
もう少しだけ、二人の世界を堪能していたい。
そう思うのはわがままだろうか。
芽生えた独占欲に悶々としていると、洗濯物を抱えた冬華が戻ってくる。
「悪いな、いつもやってもらって」
「いいんですよ。私は朝陽くんの彼女なんですから」
「彼女……そっか。そうだよな」
胸を張る冬華が愛しくて、つい腕を伸ばして抱き留める。
「わっ、い、いきなりはずるいです」
朝陽に包み込まれるようにして、冬華はパクパクと口を動かした。
先ほどまで存分に甘えていたのに、いざ朝陽からスキンシップされると恥ずかしいらしい。自分のペースを崩されると、途端に顔を真っ赤にしてしおらしくなってしまう。
それでも拒む様子は見せず、冬華はぎゅっと朝陽の背中に腕を回した。
精一杯その愛情を受け止め、小さな幸せを享受する。
「朝陽くんも意外と甘えんぼですか?」
「……冬華に比べたらそんなにだよ」
「じゃあ私のほうが朝陽くんを愛してるってことですね」
「それとは違う。俺だって冬華を、好きだし」
「じょーだんですよ、じょーだん」
今度は照れる側になった朝陽を、冬華は嬉しそうに抱きしめる。
「これからも一緒にいてくださいね」
「もちろん。二人で……ずっと一緒にいよう」
言葉に偽りはなかった。
真実の愛が、そこにはある。
これからも、ずっと。
そんな表面的な永遠を、二人は信じて離さない。
健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも。
朝陽と冬華はただ一つの愛を誓い合った。
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