第93話 夏の始まり
期末テストを乗り越え、終業式を迎えた学生には、夏休みが待っている。
一教科でも赤点を取ってしまった生徒は補習を受けることになるのだが、成績優秀な朝陽とは無縁の話。
全員平等に課された膨大な宿題から目を逸らせば、約一カ月の長期休みは至高の時間だ。
例えば友達と夏祭りに出かけたり。
「お待たせしました」
マンションの近くにある公園でベンチに腰掛け待っていると、ほんのり温かいそよ風に流され声が届いた。
時計の針は六時を指している。待ち合わせの時間ちょうどだった。
「いいね、冬華っぽい」
「なんですかそれ」
くすぐったそうに笑った冬華は浴衣を着ていた。
青色を基調に緑色が淡く彩られた布地は上質でレトロな印象で、至るところに紫陽花の花が美しく咲き誇っている。白色の帯は背中側で蝶々のように結ばれて、華やかで爽やかな雰囲気を感じられた。一方で木製の下駄は質素な作りをしていて、必要以上に主張しない。
冬華が浴衣を着るなら、こんな感じなんだろう。
そんな想像通り、いやそれ以上に似合っている浴衣姿が、忘れられない夏の始まりを予感させた。
「そういう朝陽くんも。とても様になってますよ」
特に特徴のない
色合いがぴったりとか、着こなしていてカッコいいとか。
素直に飾らず褒め言葉を口にされ、朝陽は気恥ずかしくて耳を塞ぎたくなる。
「よくすらすらと人を褒められるな」
「事実を述べてるだけですから」
「そういうもんか」
「もしかして照れてます?」
覗き込むようにして冬華がニヤッと意地悪く笑うのを見て、図星を突かれた朝陽は目を背けた。
いったい誰に似たのか。こういうのは千昭と日菜美で十分だというのに。
親しくなるにつれ物腰が柔らかくなる冬華に、いつだって心の奥底が騒がしくなる。
「それに、朝陽くんも大概ですよ?」
「俺?」
「もしかして無自覚でやってます?」
今度はジト目で口を尖らせた冬華だが、朝陽には心当たりがない。
「まあ、それならそれでいいんですけど」
冬華はなぜだか勝手に照れる素振りを見せて、それからすぐに元の表情に戻った。
「そろそろ行こうか」
「そうですね」
行き先は近くで開催される夏祭り。
横並びで歩を進めていくうちに、手と手が何度もすれ違った。
それを物寂しいと思いながらも、今はひとりで握りしめる。
まだその時じゃないと、心に秘めた大事な言葉を反芻する。
時同じくして、隣を歩く少女も小さな手をきゅっと丸めた。
アスファルトを照らす七月の夕陽がゆっくりと沈んでいく。
触れたら伝わる想いを胸に、二人の夏が始まろうとしていた。
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