第7話 第1章 ひなた―――2017
カーチャと校門の前で手を振って別れ、わたしが中央区役所にむかったのは一時半のことだった。
途中、
「そっか。今日はライラック祭りだったんだ」
ライラック祭りっていうのは毎年五月に大通公園で行われる花のイベントのこと。冬の尻尾を引きずることの長い札幌の気候も、この時期になるとようやく春の装いを帯び始める。
清冽な午後の風が街の谷間を吹き抜ける。藤色や葡萄色、紅色……様々な彩りのライラックがぞんざいすぎるほど無造作に植わっているのをながめつつスマホをかざす観光客に混じって歩いていると、音楽祭の出番を待っているらしい吹奏楽部の生徒とすれ違った。
これから演奏が始まるのだろう。ホルンやトランペットといった金管楽器を携えたすらりと背の高い女子高生たちが野外ホールのバックステージの袖で一列に並んでいる。その最後列、髪を短く刈り浅黒く日に焼けた女の子が胸に抱いたペットのベルが日差しを浴び、光を鮮やかに照り返している。
「かっこいいなあ」
家の片づけが終わってまだ時間があったら優希といっしょにこようと、抜けるような空をまっすぐに指すテレビ塔を振り返り、わたしは大通公園を後にした。路上をすべるように流れていく真新しい車体の市電と併走して停車駅をいくつかすぎ、節子おばさんのいる中央区役所に着いたのは二時のことだった。
「そーむきかくか、そーむきかくか……」
呪文のように口の中で唱えつつ一階のロビーから階段をあがり、そのまま二階の「総務企画課」へむかう。制服姿のわたしがとことこ入りこむのを職員の人が怪訝そうに見咎めたときだった。机の間からおばさんが顔を上げ、手を振った。
「こんにちは」
「ごくろうさま。ひなたちゃん、わざわざ大変だったわね」
カウンターの外に出てきたおばさんは制服姿のわたしを見やって微笑んだ。
節子おばさんはお母さんのお姉さんで、もう長いこと役所に勤めている偉い人だ。ぺたんこのローヒールを履いても身長が170センチもあって、すごく綺麗な人なのにほがらかで人懐っこくてユーモアがあって、会うたびにいつもわたしと優希に優しくしてくれる。お母さんが言うには若い頃はこの人を巡って無数の男の人たちが血みどろの決闘を繰り広げるくらいの壮絶な美人だったらしいけど、いまだに独身なのが不思議。
お母さんからすでに連絡が行っていたのだろう。おばさんは用意してあった防災地図を渡してくれた。
「はいこれ。こっちがハザードマップでこっちが河川
「ありがとう。うちのエリアも載ってる?」
「もちろん載ってるわよ」
中身を見たくなり、わたしは〈平成29年度版〉と記されたその防災地図を広げた。地図は中央区と南区をあわせたもので、地図全体を小さなドットで区切り、そこにまるでモザイクみたいに赤、オレンジ、黄色、グリーンなどのカラフルな色分けがされてある。色が寒色なほど地盤が安全で、あったかい色になるほど危険度が高いってこと。うちのまわりは黄色だった。
わたしは訊ねた。
「うちだったら避難所はやっぱり近くの小学校とかになるの?」
「そうね。あのおうちだったら、避難所は中央体育館か北海道神宮
おばさんは綺麗な指でそっとその一角をなぞってみせる。
「おばーちゃんは?」
「母さんは……きっと施設にいた方が安全ね。あそこは地盤がいいし、少し高いから。最近おばあちゃんに会った?」
「今朝寄った。でもときどき変なこと言うよ。すごいむかしのこととか」
「おばあちゃんももう歳だからね。でも、ひなちゃんはおばあちゃんのお気に入りだしね。ときどき顔を見せてあげてやって」
お母さんによろしくねと言づけ、おばさんは階段のところまでわたしを送ってくれた。わたしがきびすを返したとき、ふとおばさんは言った。
「そういや、今朝も地震があったわね。やあね。地面が揺れるって」
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