第5話 第1章 ひなた―――2017


 もしわたしが突然昨日やおとついのこと、明日の予定やなんかを全部忘れてしまったらお母さんはどうするだろう?

 例えば優希が楽しみにしていた日ハムの試合やコンサの試合のチケットを取り忘れちゃったり、二ヶ月分の月謝の入った袋をうっかり受け取らなかったり、もし(あくまで、もし、よ)現国の漢字テストがあるのを完全に失念していて当日17点しか取れなかったとしたら。

 怒る?

 それとも叱る?

 いやいや、そんなときはおばあちゃんを見習うべきだとわたしは思う。おばあちゃんは昔の豪傑らしく何があっても泰然たいぜんとし、自分が何を忘れたかどころか自分が何をおぼえていたかもいちいち細々と思い出そうとしたりしない。わたしはそんなおばあちゃんが好きだった。そして、そのおばあちゃんの使うシャンプーを家に置き忘れてきたと気づいたのは施設の入り口を潜り、フロアに足を踏み入れたときだった。

(……やべー。まあ、いいか)

 わたしが開きなおって廊下を歩いていると、顔なじみの介護士のお姉さんが声をかけてきた。

「あらひなちゃん、おはよう。朝から偉いわねえ」

「おはよーございますっ。おばあちゃんは?」

「お部屋にいるわよ。いいわねー、中学校の制服。ばしっと決まって、もうおねーさんね」

「えへへ」

 褒められ、わたしは相好を崩した。

 そして勝手知ったる気安さでホール横の大食堂を抜けると廊下の横にあるおばあちゃんの部屋に入った。扉は開きっぱなしになっており、日当たりのいい部屋の奥のマッサージ器の前で春物のセーターを着たおばあちゃんが椅子に腰を下ろし、朝刊を広げて読んでいた。

「おばあちゃん、きたよー」

「おやまあ。ひなちゃんかい。よくきたねえ」

 新聞から顔を上げてわたしを認めると、おばあちゃんはにっこり微笑んだ。それからその視線がさまようようにわたしの後方でわずかに泳ぐ。

「お母さんは?」

「家だよ。おばあちゃん、元気?」

「よくきたねえ。ごはんはまだかい。おばあちゃんこれからごはんだから食べていきな」

「や、いいよ。もう食べたから。てかこれから学校だし」

「そんなこと言わずにおあがり。おばあちゃんのぶんはいいから」

「う、うん」

 わたしは困ったことになったと思った。「ごはんを食べていけ」はおばあちゃんの口癖だ。だからここに来るときは食事時は外すというのが鉄則。じゃないと自分のぶんを人にあげて絶対食べないから。

 やむなく話題を変える。

「ごめんおばあちゃん、今日シャンプー持ってくるはずだったんだけど忘れちゃった。今度持ってくるね」

「そうかい」

 なんのことかよくわかってないのか、わたしの言葉をあっさり流すとおばあちゃんはつけっぱなしだったテレビに視線と関心を戻す。わたしはベッドに腰を下ろしあたりをながめた。

 八畳ほどのおばあちゃんの部屋。

 ここに移るときは「ふん。まるでマッチ箱みたいだ」とかぶうぶう文句を言っていたけど、今ではここがついの棲家だと広言してはばからない。ここにいるおばあちゃんの方がわたしは好きだ。正直、家にいるときのおばあちゃんは少し怖かったから。

「ひなちゃんはなにかほしいものがあるかい?」

 つとおばあちゃんがあらたまった口調で言った。わたしは首をかしげた。

「ほしいもの? なんで?」

「ひなちゃん、ちょうどいいところにきたよ。おばあちゃん、前からひなちゃんに聞こうと思っていたんだ。ひなちゃんには世話になっているからねえ、おばあちゃんなんでも買ってあげるよ」

「うーん。なんだろう。べつにないかなあ」

「そんなこと言わずに言いなさい。なんかあるだろう」

「んー、じゃあなんか考えとく。ていうかこの間ほら、みんなで定山渓じょうざんけいに泊まったときアイス買ってもらったでしょ。あれでいいよ」

「なにをばかな。そんなつまらないこと言うもんじゃない」

「でも、急に思いつかないし……」

「おばあちゃんはにお金がたくさんあるんだから、こういうときはちゃんと素直にもらっておくもんだ」

 わたしのいまいち温度の低い態度が気に入らなかったのか、おばあちゃんは不機嫌そうに言った。わたしはべつに気にしなかった。というのもおばあちゃんがその日の気分次第でこんなことを言うのはしょっちゅうだったから。この間も見舞いに来た優希に「うちは戊辰ぼしんの負けた側だよ。よくおぼえておいで」とか二時間捕まえて放さず、「母さんったらまた余計なこと言って」とお母さんがぶつぶつ言っていた。

 が、今回もどうせその段だろうと思いきや、この日のおばあちゃんは少し様子が違った。「……どれ、ひなちゃんには見せてあげようかね」と、歳の割にがっしりとした腰回りを揺らして立ち上がると、テレビ横の衣装ダンスの引き出しを大きな手でごそごそ漁っていたが、やがて中から小さなビニール袋を取り出した。

「……?」

 見ると北海道銀行の預金通帳が二冊と印鑑が入っている。一冊は新しく、一冊は古い。

「おばあちゃんの貯金だよ。こっちは葬式費用の250万。そしてこっちが1億2400万だ」

「へ?」

 わたしはきょとんとした。

 それから通帳の中身を見せてもらって唖然とする。手垢のついた古い方の通帳の「差し引き残高」という項目の最後に、これまでわたしが人生の中で目にしたことがないくらいのたくさんの0の数がずらりと並んでいたからだ。

 一気に目が醒め、眠気などたちどころにふっ飛んだ。

 わたしは叫んだ。

「すごーいおばーちゃんっ。お金持ちだねえ! どうしたのこれ!」

「これはみんなひなちゃんにあげるよ。おばあちゃんにはもう必要のないものだし、おばあちゃんには孫といえばひなちゃんだけだからねえ。これだけ尽くしてくれる子はほかにないよ」

 いや、優希もいるんだけど……と言いかけてわたしは黙った。せっかくくれると言っているものを拒むこともあるまい。とはいえあまりの金額に、あらためておばあちゃんの顔を見返す。おばあちゃんってこんなにお金持ちだったんだ。むかし大きな商いをしていたとか、いろんな人脈を持つやり手だったとか噂には聞いていたけど、いっしょに住んでたのにちっとも気づかなかった。

「で、でも……こんなのお母さんに言わないと。てかこれ、お母さん知ってるの?」

 ふと我に返ると同時にちょっぴりこわくなり、わたしはおずおずと言った。とたんにおばあちゃんは首を振った。

「透子は知らないよ。あれはむかしから貯金のできない子だからね。結局、本当の苦労というものをしてないから、いつまでたってもお金が身につかない」

 かつて「女傑」と言われた頃の片鱗をちらりと垣間見せるおばあちゃんの言葉にわたしは神妙にうなずいた。ということはお母さんはこの貯金の存在を知らないのか。わたしはあらためて通帳を見返したが、ふとそこであることに気がついた。

「あれ。でもおばあちゃん、この通帳、全額下ろしてあるみたいだよ。平成のはじめに」

 多少の増減を繰り返しながら刻まれた124.371.040円という目がまわりそうな巨大な数字の羅列の一番最後、預金残高の数字が0円になっていることを指摘するわたしに、おばあちゃんはにやりと笑った。

「銀行はあてにならないからね。いったん全部下ろしてべつのところに預けてあるんだよ。おや、地震だね」

「へ?」

 さりげない一言にきょとんとし、一拍遅れてわたしはおばあちゃんの介護用ベッドの金属パイプがきしきしと揺れていることに気がついた。続いてぐらっという横揺れが施設を襲い、部屋全体がみしみしと音を立てる。


「―――地震」


 わたしはあわてておばあちゃんに寄りそった。

 廊下では介護士さんたちのあわただしい声が交差し、一瞬騒然とした空気が流れる。窓辺のブラインドの紐がゆっくりと左右にそよぎ、おじいちゃんの写真を飾った仏壇の前で供えられたLEDの電気線香と碁石と木仏の楊柳観音ようりゅうかんのんがかたかたと揺れた。

 やがて揺れが鎮まった頃、つけっぱなしだった液晶テレビに「午前8時17分頃地震がありました」という速報のテロップが流れた。震度2は日高ひだか町 上川かみかわ町 震源は日高沖南50キロ マグニチュードは4.0 この地震による津波の心配はありません。……

「震源地、日高の方だって。あんまり揺れなくてよかったね」

「北海道は地震が少ないからねえ。まったくいいところだ」

 郷里大好きっ子のおばあちゃんが満足そうに言う。

「うん。でも気をつけた方がいいよね。わたしも今日、お母さんに頼まれておばさんのところに防災地図をもらいに……って、あーっ」

 そこまで言ったところでわたしはテレビのテロップに流れた時刻に気づき、愕然とした。

 いけない。完全に遅刻だ。

「ごめんっ。おばーちゃん。学校遅れそうだからもう行くね!」

「そうかい。ご苦労さんだったねえ」

 おばあちゃんはおだやかに言う。わたしが鞄を肩にきびすを返したとき、ニュースがCMに切り替わる。テレビの画面に大写しに初音ミクちゃんが映り、わたしは一瞬足を止めた。


「北海道ぐるっとシアター」にて春のプレゼントキャンペーンを開催中! 新千歳空港国内線ターミナルビル4F、雪ミク・スカイタウン」


 ツインテールのかわいらしい長い髪、白のノースリーブブラウスにサニーブルーのネクタイ、ほっそりしたウエストに長い脚、未来を映し、一点の曇りもない蒼い瞳。

「ミクちゃんだ。かわいいな」

 わたしは急ぐ足も止めて、札幌市民におなじみのこの美少女を見て溜息をついた。

 ミクちゃんはかわいい。

 八頭身から二頭身、イラストからCGまで自在に姿を変え、YouTubeからゲームの中まで世界中を駆け回る、歌って踊れる美人さんのヴォーカロイドだ。わたしもスクールバッグに雪ミクちゃんのストラップをつけている。今年の二月にカーチャとふたりで大通公園の雪祭り会場に行ったとき、おそろいで買った。寒くて、混んでて、屋台の豚骨スープがあったかくて美味しかったっけ。

「おばあちゃん、この漫画の子知ってるよ」

 突然、CMを見ながらおばあちゃんが言った。

「え?」

 わたしはおばあちゃんの方を振り返った。おばあちゃんは再び一人がけのソファーに腰を下ろし、静かにテレビを見ている。CMの中ではミクちゃんがリンちゃんやレンくん、ルカちゃんといっしょに元気に踊っている。

 わたしはびっくりして訊ねた。

「マンガの子って、ミクのこと? おばあちゃん、初音ミク知ってるの?」

「ああ。おおむかし、会ったことがある。よく働くいい子だった。歌がうまくてね」

「はぁ?」

 わたしは今度こそ首をかしげた。表情がまともなぶん、おばあちゃんが完全にむこうにいっちゃった気がしたのだ。が、あらためて問い直している時間はもうなかった。

「早く学校へお行き」

「う、うん……」

 おばあちゃんにうながされ、わたしは施設を後にした。



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