第83話 第5章 ひなた―――2017
資料館の石の建物を出たときにはすでに夕暮れになっていた。
長い長い旅をしてきたような心持ちがして、わたしは朱に染まった空を見上げて深い溜息をついた。五月の冷たく澄んだ空気が肌に心地よかった。
ある疑問が湧き、わたしは顔を上げて訊ねた。
「そうだ。ひとつだけわからないことがあるの」
「うん?」
傍らの探偵さんが視線を下ろす。
「優くんとお父さんの年の差よ。「お父さんを捜してほしい」って探偵さんに頼んだとき、わたしはお父さんは青年だと思ってたし、探偵さんにもそう言ったわ。でも実際に会った優くんはもっと若い……わたしと同じくらいの男の子だった」
「ああ。そのことか」
思い出したように探偵さんは灰色の無精髭を掻いた。
「つーか、あれはお前が悪い。ミクは親父さんのことをよく知らないか、後追いでその経歴を調べたろう。ま、幼くして別れたのだから無理もないが、御形陽介は1966年生まれで、62年じゃない。だから1980年当時、彼は14歳でまちがいないよ」
「えっ。じ、じゃあ」
「お前の勘違いさ。たぶんミクが見た親父の略歴がまちがっていたのだろう。むかしの雑誌はわりと誤記があったからな。つまりあの時代に18歳の御形陽介など、どこにも存在しなかったというわけだ」
「そ、そんなあ」
「まったく。それがわかってりゃ俺も親父さん捜しにあんなに遠回りせずに済んだんだのだろうが……ま、いいっこなしだな」
わたしは自分のそそっかしさに溜息をついた。なんのことはない、あの当時お父さんを年上の青年にちがいないと思いこんでいたのは、たんにわたしの幻想にすぎなかったわけだ。
もしあのとき、優くんがお父さんだとすぐに気づいていたら―――。そう考えたところで、わたしは首を振った。いや、きっとあれでよかったのだろう。お父さんと知らずわたしは優くんという中学生の男の子と出会い、言葉を交わし、深く心を結びつけながらかけがえのない一瞬をすごした。それで十分のような気がした。探偵さんには悪いけど。
道歩くわたしの耳に、つと硬質で透明な歌声が届く。それが街頭の大型ビジョンから流れるミクちゃんの歌声であることに気づき、ここが現代であることに今更ながらに思い至る。
わたしは訊ねた。
「ね、あの人は元気? ほら、大学に行ったときにいろいろ教えてくれた、あのお髭を生やした山男みたいな人」
「ああ、熊か。元気でやってるよ。つうか、あいつ偉くなって今は教授だぜ。あいかわらず身体はでかいけどな」
今度会いに行くか、と誘われ、わたしはうなずいた。やがて公園のはずれに辿り着く。なんとなく去りがたい気分になりながらわたしは探偵さんを見上げた。
「ありがとう探偵さん……いろいろ」
「貝桶、落っことすなよ」
風呂敷包みを抱えたわたしを見やり、探偵さんはからかうように言った。
「これからも……ときどき会ってくれる?」
「いつでも」
探偵さんは笑った。そして暮れなずむ街並みに目をむける。
「街がこの有様だからな。お互い元の生活に戻るには時間がかかるだろうが―――落ち着いたら俺も一度施設に顔を出してみるよ。久しぶりにばあちゃんの顔も見たいしな」
「うん」
わたしは微笑んだ。
「探偵さんのおかげで昔の歴史のことをたくさん知ることができて楽しかったわ。うちの母方の先祖って、東北だったのね」
「ああ。その貝桶のルーツもな」
探偵さんの言葉にわたしは紫の風呂敷に包んだ貝桶に目を落とした。おばあちゃんからお母さん、わたしへと託されたこの雅な嫁入り道具に、ふと遠い郷里に興味をおぼえてわたしは言った。
「北海道に渡る前、伊達のお殿様がいた土地って
「…………」
一瞬、かすかに探偵さんの表情が動いたことにわたしは気がついた。わたしは首をかしげて訊ねた。
「どうしたの?」
「……そうか。ミクは知らなかったんだな。あの頃はまだ小さかっただろうしな」
探偵さんは表情を硬くして言った。わたしは重ねて問うた。
「? なんのこと?」
「や、亘理は……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます