第40話 第2章 ミク―――1980
その日のことはよくおぼえている。めずらしく探偵さんの方からわたしを訪ねてきた日だったからだ。
その日は土曜日だった。
たまたま塾が午前中でひけたため、わたしはいつもの土手に腰を下ろし、近所の男の子たちが草野球をする様子をながめていた。その中には優くんもいて、年下の子に混じって楽しそうに白球を追いかけている。
時折大きな歓声をあがる中、ぽんと青空に上がったファールボールを目で追いかけたときだった。土手沿いの道をゆっくり歩いてくる痩せたのっぽの男の人の姿にわたしは気がついた。
「探偵さん!」
「ミクか」
脱いだ背広を右の肩に引っかけ、探偵さんは土手で立ち上がったわたしを見て笑った。そしてさくさくと下草を踏み分けて降りてくる。
「どうしたの?」
「このへんに住んでると聞いてたからちょっと寄ってみたんだが……。いや、じつは少しの間事務所を留守にするもんでな。それを言いにきた」
そう言うと彼は眼下で野球に興じる子どもたちを見やる。
「離れるって……どこかに行くの?」
「ま、そんなところかな。―――おっと、例の人物の方はちゃんと調べてやるから心配するな」
「べつに心配はしてないけど……」
わたしの気持ちを察して先回りして言う探偵さんの言葉にわたしは赤くなった。探偵さんはそんなわたしの頭を軽く拳でこづくと、そのまま川の流れをながめ渡す。拳を上げたとき、袖の下の手首に白い包帯が巻かれていることにわたしは気がついた。
「久しぶりにこっちにきたけど、いいところだな。広々してて」
「ね、いったいどこへ……」
いつになく
「ミクっ」
意気揚々とベースを踏んだ優くんは土手の斜面を見上げ、わたしと話している探偵さんの姿に気がついた。
「……? 誰だ?」
優くんは首をかしげた。
「ああ。この間話した探偵さん。黛さん」
「ふうん」
優くんは玄妙な顔つきでわたしと探偵さんを交互に見比べた。探偵さんは笑って言った。
「いいツーベースだったな。走塁もよかった」
「へへ」
褒められ、優くんは鼻をこすった。
「いい脚してる。ジャイアンツファンか?」
「へっ、誰が」
優くんはにやりとした。札幌は巨人ファンがすごく多い。この時期はまだ日本ハムファイターズも大谷選手もいないから無理ないけど。
「てか、べつに好きなチームはないんだ。でも王は好きだよ。ホームランいっぱい打つしね」
「王か。今年でたぶん引退だろうな」
「まっさかあ。しないだろ」
男ふたりがしばらく野球談義に花を咲かせるのを、わたしは側で所在なく聞いていた。男の人ってどうして馬鹿みたいにスポーツが好きなんだろう。
照りつける日差しのもと、わたしが爪先で草を蹴っていると下の男の子たちが大声で優くんを呼ぶ。
「ゆうーっ。打順だぞー」
「おー。じゃなミク、ちょっといってくら」
そう言い残すなり優くんは勢いよく河原へ駆け出していく。その後ろ姿を見送り、探偵さんは煙草を取り出しながら言った。
「いい子だな。友達か」
「う、うん」
わたしはもじもじした。
「仲良きことは美しき哉」
探偵さんはにやっと笑って煙草を咥えると、雑草だらけの粗末なグラウンドに視線を投げる。
気温が上がってきたのだろう。優くんは「ぶちあちぃー」と叫ぶとシャツの袖をまくりあげ、打ち気満々で左バッターボックスに立つ。
つと探偵さんはマッチを擦る手を止めた。
「……? どうかしたの?」
「……。いや、なんでもない」
首をかしげるわたしに対し、探偵さんはその天然パーマを風になぶらせたままぼんやりその場に佇んでいたが、ふいにきびすを返すと背中を見せて軽く手を上げる。
「……んじゃ、そういうわけでな。じゃあな、ミク」
そう言うと探偵さんはさっさと土手を上り、帰ってしまった。引き留める間もない。
(へんなの)
わたしは再び膝を抱えて腰を下ろし、男の子たちが野球するのをながめていた。日差しはますます強まり、わたしの踏んでいる下草に濃い影が落ちた。暑くなりそうだった。
わたしは
でもおそい。わたしはいつだってあとになって物事に気づくんだ。
キン!
打席に立った男の子が鋭い打球音と共にライナーを放った。
ボールは一塁を守る子のグラブをかすめ、いきおいよくライン際を破ると、そのまま外野の外の草むらに飛びこむ。わたしは立ち上がってボールを取りに行った。塁上の優くんがこっちを見ていたのをおぼえている。
ボールは川に架かったコンクリートの橋の下の方にまで入りこんでいた。転がったボールを拾おうと腰をかがめたときだった。
ふとわたしは橋桁がみしみし上下に揺れているのに気がついた。
地震だった。
「地震だ……!」
もしわたしが橋という構造物の下ではなく土手に座っていたら、この微弱な揺れには気づかなかっただろう。震度は1か、2か……。でもこの時は気づいた。それが引き金となった。
「きゃっ……」
トラウマから地震にすっかり弱くなっていたわたしは身をすくめ、おびえた。あわてて橋の外に駆け出そうとしたとき、自分の身体が日光とは異なる、淡く透明な光に包まれていることにわたしは気がついた。
……あ、駄目だ。
わたしはきつく唇を噛んだ。
わたし、まだなんにもしていない。
そう思った瞬間―――わたしは跳んだ。
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