第26話 第2章 ミク―――1980


「結論から言うと、これは貝合かいあわせの貝だな。そのつがいの一部だ」

「なんだ、貝合わせっていうのは?」

「昔の工芸品だ。貝の裏に絵を塗り、それを合わせて楽しむ遊戯で、今で言うトランプの神経衰弱みたいなものかな。のちに貝桶に入れ、嫁入り道具のひとつとして贈答されるようになった。貝は必ず一対のものしか重なりあわないことから、夫婦が末永く対となるようにという祈願をこめてな。材質ははまぐり。かなりの年代物だ」

「嫁入り道具……」

 意外な事実にわたしと探偵さんは視線を見交わした。どうしてそんなものをお父さんが持っていたのだろうと不思議に思ったのだ。

 思わず箱の中の貝殻に目を落とす。そんなわたしたちを前に熊澤さんは言葉を続けた。

「貝合わせがもっともたくさん作られたのは江戸期の頃だ。源氏絵や花鳥草木が描かれることが多く、『源氏物語』や『伊勢物語』が題材として好んで取りあげられたらしい。貝の裏に細い筆と絵具で彩色を施していく緻密な作業だ。ちなみにこれは一枚だけだが、たぶんこれに対になるもう一枚と、さらにこれに類する図柄が描かれた貝が大量にあるんだろう。これはそのうちの一枚だ」

「どうしてそう言い切れる?」

「貝合わせは通常、360組ひとセットで作られるからさ。夫婦が一年中、円満で仲がいいようにという願いからな」

「あら、どうして365組じゃないんですか? 一年なのに」

 わたしは首をかしげて訊ねた。熊澤さんは目尻に皺を刻んだ。

「これが作られた時期が新暦であるグレゴリオ暦ではなく、旧暦の頃だったからさ。昔の日本は360日だったんだ」

「あ、そっか」

「ま、その願いははかなく打ち砕かれるんだけどな。幻想はついえ、一月も経たないうちに血で血を洗う夫婦げんかが始まる」

 探偵さんが軽口を叩くのを、わたしと熊澤さんは揃って無視した。

 熊澤さんは続けた。

「だがこの貝がそれらともちょっと違うのは、これがおそらく100対の貝合わせだったろうという点だ。見てごらん。この部分……ここに小さく文字が書いてあるのが読めるかい?」

 熊澤さんはその分厚い肩をずずいと寄せると、無骨な指で小さな貝殻の一部を指し示した。わたしはうなずいた。

「ええ」

「ん? よく読めんぞ」

「ここだ。かな文字で、乙女の姿しばしとどめん―――とあるだろう」

 探偵さんは目を細め、うなずいた。

「……なるほど。百人一首か」

「そういうことだ。貝合わせで百人一首を題材にしたり意匠としたものはきわめてめずらしい。まず、この蒔絵まきえは希少なものと言えるだろう」

「上の句がどっかにあるってわけか。……値打ちもんかい?」

「もちろん。ただし貝桶を含め全部揃っている前提だがな。いや、是非見たいものだ。絵と歌、これだけのものが百首並んでいるところをな」

 わたしは内心わくわくしながらふたりの話を聞いていた。自分の持ち物である貝殻にそんな価値があることも知らなければ、繊細な歴史が閉じこめられていることにも気づかなかったのだ。

 一方、探偵さんは天然パーマをくるくるとかき回していたが、やがて片眉を持ち上げると、テーブルの下で苦労して脚を組み替えて言った。

「まあ、この貝の正体はよくわかったんだが……。で、どうなんだ? この貝殻から持ち主の素性をあらい出せる可能性はあるのか」

「可能性?」

「話した通り、これはこの子の父親が持っていたもので、俺たちが持つ手がかりと言えばこれひとつだ。せめてなにか行方を捜す証拠になるようなものがわかればありがたいが」

「さあな。俺にはよくわからんが……」

 熊澤さんは日に焼けた顔を上げると、その太い腕を胸の前で組んだ。その背後でリボンをつけた扇風機が全力で羽をまわしている。それを見てわたしは夏の暑さを感じた。

「可能性云々で言うなら、そもそもこれは他家のものであってこの子のお父さんの持ち物ではないということはあり得るじゃないのか? そこは考えるべきだろう」

「ふん。だろうな。―――おいミク、お袋さんの出身地どこだ?」

「え? どうして?」

「親父さんが嫁入り道具を持っていたということは、お前の家に嫁ぐ際にだれかこれを持ってきた人間がいるということだ。とすれば、それはお前の母親以外にあり得ないだろ」

「そ、そうか。え、ええと―――」

 わたしは懸命にお母さんの実家を思い出した。

伊達だてよ。室蘭むろらんの近くの伊達市。そこが田舎なの。お母さんは札幌の生まれだけど、おじいちゃんとおばあちゃんはそこの生まれだったわ」

「伊達、か」

「なるほどな」

 わたしの傍らでふたりの男性は納得したようにうなずいた。わたしはきょとんと首をかしげた。

「なにがなるほどなの?」

「伊達は仙台の伊達氏が開拓で切り開いた土地だからさ。明治の頃にな。たぶん、お前の母方の先祖が士族だったんだろう。ルーツは東北だ」

「でもだとすると、これを調べてお父さんの出自を知ろうというのはそもそも筋違いだったということになるな」

「まだわからないけどな。親父さんの持ち物だという可能性もないわけじゃない」

 探偵さんは腕組みをして言った。

「いずれにせよこれはかなり高価なものだ。これだけのものがおいそれとあるはずがないし、嫁入り道具として持参するとすれば士族の中でも相当身分の高い家柄だったんじゃないか」

「家柄、ね。この蒔絵の模様で時期や地域は特定できないのか? 所有者のルーツや係累や住んでいた土地がわかるとか」

「とてもそこまでは……。俺も古美術は専門外だし、そもそも貝合わせの遊び自体、遠い昔から広く存在していたものだしな」

「けっ。でかい図体してちまちましたこと言いやがって。もっと景気のいいことは言えんのか」

「図体は関係なかろう」

 熊澤さんはぷっとむくれた。

「産地はわからんが製作時期は江戸期の頃だろう。画師は土佐派か住吉派か狩野派か円山派か……。金箔が使われているところからみても素性のよいものであることはまちがいない」

「貝は蛤だと言ったな。めずらしいものか?」

「少しも。ほぼすべての貝合わせの材料は蛤だ」

「駄目、か」

 探偵さんは肩をすくめた。そしていきおいよく立ち上がる。

「OK。わかった。あばよ。邪魔したな」

「もういいのか?」

「これ以上ここにいたら暑さで茹でたこになりそうだしな。失礼するよ」

「あ、あの、どうもありがとうございました」

 貝を収め、わたしはぺこりと頭を下げた。熊澤さんは髭に覆われたほおをほころばせると、はにかむように頭を掻いた。

「いや、あまりお役に立てなくて申し訳ない。こんなむさ苦しいところに」

 わたしたちは部屋を後にした。

「黛、あまり危ない橋を渡ったりするなよ」

 わたしたちを入り口まで見送ったとき、熊澤さんがつと気遣わしげな言葉を投げた。探偵さんはなにも言わず、両手をポケットに突っ込んだまま片目をつむるときびすを返した。


「んじゃな」



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