第86話 第5章 ひなた―――2017
病院の入り口を出たとき、わたしは男の子の声に呼び止められた。
「ねーちゃんっ!」
「誠司くん?」
おどろいて振り返るわたしの視線の先に誠司くんが笑顔を浮かべて立っていた。もうすっかり元気になったようで、わたしを認めるや一目散に駆けてくる。
「誠司くん。もう、いいの?」
「うん。元気」
誠司くんはまっすぐわたしを見上げると、にっとそのなめらかなほっぺをほころばせてうなずいた。
その後ろに立っていた誠司くんのお母さんが控えめに頭を下げる。
「あの、ふたりで先生のお見舞いに参りましたの。……先生はお部屋ですか?」
「は、はい」
誠司くんのお母さんは鮮やかな花束を持っていた。それを胸に抱え、お母さんはいくぶんためらう様子だったが、わたしを正面から見つめると小さく頭を下げて言った。
「御形先生には息子を助けていただいて、大変感謝しております。あの―――いつかは叩いてしまってごめんなさい。あれからこの子に叱られましたの。お姉ちゃんは悪くないのに、って」
「いえ、そんな……」
わたしはそれしか言えなかった。
ふたりと別れて歩き出したとき、背後から誠司くんが大声で叫ぶ声が聞こえた。
「ねーちゃん、早く元気出せっ」
わたしはおどろいて振り返った。
誠司くんはそんなわたしに白い歯を見せ、大きく伸び上がって手を振った。
頭上を、風が流れてゆく。
今も、時々想像する。
あの日、2017年に戻ったわたしの前に、やはりあの震災でお母さんが助からなかった未来が待ち受けていたとしたら―――わたしはどんな人生を歩んでいたのだろうか、と……。
優希と二人、がんばって力を合わせて生きていたか、それとも両親に相次いで先立たれた哀しみを抱えて長いこと苦しんだか……。いずれにせよわたしたち姉弟の人生にそれが大きな影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。
でも、お母さんは生きていた。
柱の狭間で。誠司くんと二人、九死に一生を得て。
それが、わたしが過去に成したことによる結末であり結果なのか、それとも最初から未来はそうと決まっており、すべてはあらかじめ神様が定めた必然だったのか、わたしにはわからない。でも退院したお母さんを迎え、優希と三人で夕ご飯を食べたり、マンションに新しい家具を運んだり、食器やコップを買い直したりできることに本当に感謝しているし、あれは天国のお父さんがお母さんを守ってくれたんだと信じている。「まだ早い」って。
わからないことはもうひとつある。あの貝のことだ。
わたしが書斎で見つけ、そして優くんに託したあの蒔絵の貝殻―――あれを最初に選んだのはいったい誰だったのだろう?
や、もちろん選んだのはお父さんだ。でも、ひとときの出会いとその別れを惜しみ、風が天と地を繋ぐ雲の道を吹き閉じてほしいと願ったあの恋の歌。貝桶に納められた百首の中から、いずれ過去の自分が受け取ることになるその歌をわざわざ選び取ったその意思は、気持ちは、いったいどこで育まれたのだろう―――?
お父さんが自らの意思で選び取ったのか。
それとも、わたしとの思い出のよすがが優くんにそうさせたのか。
今となってはもう永遠にわからない。でもどちらにせよ、わたしは感じとることができる。いつだって、あの貝をこの手に握りさえすれば。お父さんのぬくもりを。気配を。その優しさを。
「…………」
空を見上げ、わたしは立ち止まった。
風が流れる。
風が流れていく。
スーパーへ買い出しに行く道すがら、わたしはよく晴れた六月の空を見上げた。視線の先、刷毛で掃いたような白い雲がいきおいよく伸びている。
「ひこーき?」
声をかけられ、わたしは振り返った。
「えっ」
「や、さっきから空ばかり見てるから」
「……う、ううん」
わたしは首を振り、少し遅れてついてくる優希を見やった。優希はエコバッグを手に提げ、崩れた縁石の上をまるで綱渡りをするみたいにバランスを取って歩いている。その男の子っぽい、すらりとした体つきに懐かしい気分をおぼえて、わたしは声を投げた。
「優希。おいでー」
「は?」
「こっちに」
「なんで?」
「いーから」
わたしは手で差し招くと、怪訝な顔で近づいてきたこの弟を突然ぎゅっと抱きしめた。
「……どしたの?」
「あんたが無事でよかった」
その後頭部に鼻先を埋めてわたしはささやいた。
記憶と異なる、髪質のまっすぐな黒い髪。あの子はもっとふわふわのくせっ毛だった。でも弟の髪は37年前、脚を痛めて見知らぬ男の子におんぶされたときに感じたあの優しくあたたかなぬくもりを思い出させた。
わたしはその匂いを胸いっぱいに吸いこんで言った。
「これから毎日抱きしめる」
「えぇー……」
優希は、心底イヤそうな顔をした。
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