第85話 第5章 ひなた―――2017


 次の日、わたしは病院のお母さんを見舞った。

 額の包帯はすでに取れ、お母さんは元気そうだった。すでに週末の退院は決まっており、数日前からそのためのリハビリをしているとのことだった。

 ようやく病室から抜け出せるとあってお母さんの意気は上がっているようだった。

「帰ったらやることが山積みね。いっぱいがんばらないと」

「あんまり無理しちゃだめだよ。怪我、まだ治りきってないんだから」

 ベッドの上で握り拳をつくるお母さんにわたしは諭すように言った。お母さんは苦笑いを浮かべた。

「まあねえ。我ながらよく生きてたと思うわ。でも、子どもたちに怪我がなくて本当によかった。これでまだ塾を続けられるもの」

「こわかった……?」

「そうねえ。でも一瞬のことだったから」

 お母さんは淡々と言った。

 その表情にわたしは記憶に残る透子ちゃんの面影を重ねようとした。でも、やっぱりそれはうまくいかなかった。そこにいるのは、湯上がりのような匂いを発散させ、隙あらばわたしの膝にまとわりつこうとする小さな女の子ではなく、たとえ身を張ってでも生徒を守ろうとする、一人のたくましい大人の女性だった。

 そんなわたしにむかって、お母さんはしみじみと言った。

「ごめんね、ひな。今度の件ではあんたにずいぶん苦労かけちゃって」

「ううん。たいしたことないよ」

「でも、仕事のことや母さんの世話まで頼んじゃって」

「どうってことないよ」

「まあ……。いつの間にそんなにおねーさんになったんだか」

 おどろくというよりもむしろ拍子抜けしたようにお母さんは言ったが、1980年で体験したあの日々に比べれば、この程度の用事足しなど苦労のうちに入らなかった。

 なんせ、この時代にはスマホとTwitterとコンビニがある。

 わたしは訊ねた。

「ね、おかーさん、ひとつ聞いていい?」

「うん?」

「あのね、お母さんって小さい頃に、そのう……受験した?」

「なあに、突然」

「や、前にほら、言ってたでしょ。小学校受験のこと。私立の学校にすごく行きたかったけど、行けなかったって。……それで、受験はしたのかなって思って……」

 わたしはおずおずと訊ねた。それはわたしがずっと気になっていたことだった。果たしてあの小さな透子ちゃんはわたしが去ったあと、小学校受験をしたのか、その結果運命が変わり、お母さんはあの地震で死なずにすんだのか、ずっと知りたいと思っていたのだ。

 そんなわたしの問いに対し、お母さんはあっけらかんと言った。

「ああ。そのこと? うん。確か試験を受けて合格したわよ。お受験」

「えっ。ほ、ホントっ?」

「ええ。でも結局行かなかったのよ。その学校」

「えっ」

 わたしは絶句した。

「ど、どうして……?」

「それがね、受験には合格したんだけど、お母さん、その冬に大きな病気にかかっちゃってね。冬の間少し入院してたの。春前にはよくなったんだけど、すっかり体重が落ちててね。病み上がりに遠くの学校に通うのはむずかしいということで、結局近くの小学校へ行くことにしたのよ」

「そんな……」

 わたしはぼうぜんとした。では……わたしのやったことはなんだったのだろう? 結局未来は変わっていないということなのだろうか。でも、だとしたらどうして今お母さんはこうして無事でいるのだろう―――?

 混乱し、立ち尽くすわたしにむかってお母さんは微笑んだ。

「残念だったけど、こればかりは仕方ないわよね。でももしかしたら、そのときの思いがあるから、今こうして子どもたちを教えてるのかもね」

「…………」

「やあね。なんで急にこんな話になったんだか。でも、試験のお勉強しているときは楽しかった思い出があるわよ。たくさんね」

「そ、そう……」

 しみじみと言うお母さんの前でわたしはぎこちなくうなずいた。

「……あら?」

 ふと気がついたようにわたしを見上げ、お母さんは言った。

「ひなた。あなた、少し背が伸びたんじゃない?」



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