第4話 第1章 ひなた―――2017


 その日は周年行事の振りかえで、学校はお昼までだった。

 午後からなにをしようかスマホを手にわくわくしていると、台所でエッグトーストを焼いていたお母さんが突然言った。

「ひな、今日は引っ越しの支度のお手伝いお願いね。今日中に納戸と奥座敷、整理しちゃいたいから。あと、学校の帰りにおばさんとこ寄って地図もらってきて。もう連絡しておいたから。ハザードマップ」

「えーっ!」

 一瞬のうちに午後の予定表を塗りつぶされ、わたしは思わず不平の声をあげた。そして口をとがらせて抗議する。

「お引っ越しの支度はもうとっくに終わったよ。わたしの部屋も優希の部屋も、荷物はもう全部マンションに運んじゃったし」

「あなたたちの部屋じゃないわ。一階の和室。教室を広げてひと続きにするって前に話したでしょ。業者さんが入って工事が始まったら荷物の片づけなんてする余裕はないんだから、その前にいそいで済ませちゃわないと」

「ちぇっ」

 明治の頃に建てられた、この木造二階建ての古ぼけたおうちを改装しようとお母さんが思い立ったのは、おばあちゃんが施設に入った去年のことだ。

 かつては北海道開拓使の官吏も住んだらしいこの屋敷も、百年の風雪にさらさされた今となっては立派な陋屋ろうおくとしての風格を醸し出すようになっていた。お母さんは以前からこの家屋を教室として利用し、家族の住居をべつにするという考えを持っていた。春先にお母さんはようやくこの近くにマンションを借り、わたしたち三人は週末にそこに移る手はずになっていた。わたしと優希は大喜びだったが、憧れの新居に住むにはまだいくつかの関門が待ち受けているらしい。

 さっさと家を飛び出していった弟の要領のよさをうらやみ、わたしは溜息をついた。

「そうそう、出がけにお父さんのお部屋の窓を開けといて。あの部屋、すぐ空気がこもるから。あと、おばあちゃんのシャンプー忘れずにね」

(ちぇっ。用事足しばっか)

 お腹の中でぶつぶつ言いつつ制服に袖を通すとわたしは飴色に木目の浮いた階段を上がった。お父さんの書斎は廊下の突きあたりにある。

 部屋に入り、奥のカーテンを開くとサッシ窓を半分くらい開ける。とたんに朝日がどっと流れこみ、書斎を明るい光で満たした。

(……―――お父さん)

 わたしはかつてのお父さんの仕事場をながめた。

 書きもの机に載った古いデスクトップパソコンとキーボード。三方の壁を覆う本棚にぎっしりと詰まった本。書きかけの原稿の資料なのか付箋がいっぱい貼ってあるノートや紙の束が棚から溢れた書籍と共に平積みにされて机の上を浸し、そんな膨大な本の山に埋もれるようにしてステレオセットがまるでパズルのブロックみたいに本棚の隙間におさまっている。

 そのどれもがお父さんが生前使っていたときのままだ。が、事故から七年経った今もこの書斎を片づけずにいるというのはお母さんの感傷であると同時に、たんに整理するのが面倒くさいというのもあるのだろう。

 ちなみにわたしはお父さんの書いた本を最後まで読み通したことはない。だって漢字が多い上にむずかしいんだもの。前に何度か挑戦したけど途中で飽きてやめてしまった。わたしのような読者に対し、もう少し親切に書くよう心がけていたら、お父さんの本ももうちょっと売れ行きがよかったかもしれない。

 そんなことを考えながら窓からの風に前髪を遊ばせていたときだった。

「ん?」

 わたしは目の高さの位置にあった書架の中の全集に目を留めた。

 子どもの頃お父さんがよく読み聞かせしてくれた児童むけの文学全集の中に、一冊、栞のようなものが間に挟まり、中央が大きく膨らんでいる本があることに気がついたのだ。

 わたしはその本を引き抜いた。

 それはトーマス・ベイリー・オルドリッチの『わんぱく少年物語』だった。子どもの頃わたしが大好きで、それこそ何遍も読んだ、一番のお気に入りの本だ。ためしに本の真ん中あたりを開くと二つ折りの白い紙が挟まっており、その紙の上にまぎれもないお父さんの字で「ひなたへ」と短く書かれている。

「……こ、これ、もしかしてこれ、お父さんの―――!」

 メッセージ? とわたしは急に胸がどきどきしてきた。

 どうして今まで気づかなかったのだろう。思いがけぬ発見に高鳴る気持ちを抑え、そっとその紙をページの上で開いてみる。

 そこには白い貝殻が一枚挟まっていた。

「―――貝?」

 わたしは拍子抜けして指でそれをつまみあげた。

 なんの貝だろう。五センチ四方くらいの大きさのその貝殻の裏側には綺麗な金箔が貼られ、絵具で絵が描かれている。昔の着物を着た平安時代っぽい女の人の絵だ。その横には筆でくねくねとした細い字が記されていたが、よく読めなかった。

「…………綺麗」

 一目で年代物の工芸品と知れるその美しい貝殻にわたしはしばし見とれた。でもなんでこんなものが本の間に挟まっていたのだろうという疑問が胸に湧いたとき、階下からお母さんの声が聞こえた。

「ひなたー、早く行かないと遅刻するよー!」

「はあい」

 我に返り、わたしは大声で返事をした。そしてその貝殻を制服のスカートのポケットにしまうと大急ぎで階段を駆け下り、スクールバッグをかつぐ。

「いってきまあす」

 わたしは玄関を駆け出した。


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