第44話 第4章 ミク―――1980


 あたりはまっ暗だった。

 足を踏み外し、わたしは虚空を飛んだ。斜面を頭から転がり、やっと身体が止まったときには口の中は土だらけになっていた。闇の中、わたしは唾を吐いた。苦い草の汁の味のする唾が口の端で糸を引いた。

 顔を上げずともそこが先刻の土手であることはすぐにわかった。というか、そこがどこだろうともはやわたしにはどうでもよかった。

「くそっ!」

 わたしは拳で地面を叩いた。そして歯ぎしりしながら思う。

 わたし、あそこに何分いた?

 一時間? それとも二時間?

 せっかく戻れたのに……せっかく2017年に帰りつくことができたのに、わたし、お母さんの容態すら確認できなかった! お母さんが生きているのか死んでいるのか、それすらも確かることができずに、あげくに優希を一人置いてまたここに戻ってきてしまった。あの子になにも言わずに!

 くそっ。くそっ。

 胸の中でありったけの呪詛じゅそを吐き出しつつ、わたしは両拳を固めて顔を地面に埋めた。わたしは長いことその場に突っ伏していが、やがて顔をあげたときにはあるひとつの決意を抱えていた。

 もう、やるしかない。

 今度こそ未来を変えてやる。

 もう一刻の猶予もない。この世界をいじってあの未来を根底からくつがえす以外、お母さんを救う方法はない。今から間にあうかどうかわからない。搬送先の病院でもう手遅れになっているのかもしれない。でもこのままなにもしなければお母さんは確実に死ぬ。だったら、万にひとつの可能性に賭けて挑むしかない。あの札幌の大震災でお母さんが死なない未来を作りあげてやるんだ。

 だって、死んでほしくないんだもの。

 まだまだお母さんといっしょにいたいんだもの。

「うう」

 わたしは低く嗚咽をもらした。それからこぼれる涙をぬぐうと家にむかって歩き出した。

 あたりは完全に陽が落ち、豊平川のほとりを漆黒の闇がとっぷりと覆い包んでいた。時刻は七時だろうか。八時だろうか。ひと気の絶えた土手脇の茂みからは虫の音が響き、河岸のむこうには家族の団欒だんらんを思わせるたくさんの窓明かりが灯っている。遠くで高架をすぎていく列車の音が聞こえ、わたしはじっと耳を澄ませた。懐かしい1980年。慣れ親しんだ1980年。でも、ここはわたしの居場所じゃない。

「ただいま」

 家に戻ってきたわたしを、おばあちゃんはほっとしたように迎えた。それから一転して「まったく。いま何時だと思っているの」と不機嫌になって叱る。わたしは「ごめんなさい」と一応謝ったが、実のところおばあちゃんの小言などろくに耳に入っていなかった。

 その夜、わたしは部屋に閉じ籠もって黙考を続けた。

 考えなければならないことは山ほどあった。

 まず最初に気づいてのはこのタイムスリップの法則についてだった。

 これは今日、一時的に現代に戻り、またこの時代に帰ってきたことではじめて気づいたことだった。この現象は地震と連動している。最初に過去に飛んだ地震が5月17日午後2時38分。その後いくつかの余震を挟み、わたしが再び1980年に戻ってきたのがひときわ大きな余震が発生した同日午後6時10分すぎ。なにより今日、わたしが未来に戻ったとき、土手で最初に会った男の人は、自転車を片手に「また揺れたねえ」と言った。つまり、あのときにも余震は起きていたんだ。わたしは大きな地震が起きるたび、文字通りこの時間という流れの上をすべっている……。

 なぜそんなことになったのか理由はわからないし、原理も定かではない。むろんわたしのたんなる勘違いかもしれない。でも、そう考えるしかない不思議な現象がわたしの身のまわりには起きている。


(……と、するなら)


 わたしは顔を伏せ、一心に考え続けた。

 わたしにはまだ2017年に戻れるチャンスがある、ということだ。過分な期待は禁物だけど、もし今後、こちらかむこう、もしくはその双方で大きな地震があったとき、(なにせあっちは今、余震よしんの大嵐なのだから)わたしは時間を飛び越え自分が元いた世界―――生まれ育ったあの未来の札幌に戻ることができるかもしれない。

 でも……。

 それだけじゃだめだ。

 たとえこのまま2017年に戻れたとしても、わたしは幸せにはなれない。戻った先の未来で、お母さんが死んでいてはなんにもならない。わたしはあくまでこっちの世界で、あの小さな透子ちゃんが37年後に起こる札幌大震災でも死なないという未来の道を作りあげ、その上で戻らなければならないんだ。


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