第33話 第2章 ミク―――1980



 パトカーで事情聴取を受けたあと、解放されたわたしたちがようやく帰路についたのは陽も傾いた夕刻のことだった。

 結局、御形重聡も御形憲人もお父さんとはまったく無関係な人物だった。

 彼らの三番目の弟、御形大輔だいすけさんはすでに亡くなっていた。山岳部だった彼は大学二年のとき、冬のアルプスで命を落としていたのだ。御形重聡さんは現在旅行代理店に勤務し、関西に在住とのことだった。

 のちに聞いた話によれば、あの強盗傷害で指名手配されていた布部章一ぬのべしょういちという男とは趣味のバイクを通じて知りあいった顔見知りで、道内の川釣りとツーリング目的のために以前に一度、夏の間空き部屋を貸したことがあったらしい。彼が犯罪者だとはまったく知らなかったという。

 帰りの車の中で探偵さんは不機嫌だった。

 わたしを責めるような言葉は一切口にしなかったけれど、ハンドルを握ったその厳しい横顔からはこのいっこうに探偵らしからぬ青年が相当に腹を立てているのがわかった。

「あのう……」

 沈黙に耐えかね、わたしはおずおずと口を開いた。

「ごめん……なさい」

 探偵さんはじろりとわたしを見た。そして短く言う。

「車から出るなと言ったろ」

「う、うん」

 やがて車は札幌の中心部に戻った。

 猫の額ほどの広さの駐車場に車を停め、そのまま裏通りを歩き出す。ビルのむこうにゆっくりと陽が落ち、街並みは暮色に染まり出していた。

 北の夏特有の、それまでの暑さが嘘だったような冷たく澄んだ夜気があたりに立ちこめ出したのを感じつつ、わたしは探偵さんに訊ねた。

「それで、次はどうするの?」

「次はない。探偵業務は今日で終了だ」

 探偵さんはそっけなく言った。

「―――え」

「ほんとは調査料金プラス時間単価、諸経費諸々もろもろがっつり請求したいとこだが、もともとお前が未成年で就労しゅうろう年齢未満だというのは承知の上だし、俺も十分な結果を残せたとは言いがたいからな。ま、今回は特別大サービスで無料ってことにしてやるよ。元気でな。ミク」

「そ、それって……」

 言葉の意味がよくわからず、わたしは返事につまった。それからおそるおそる傍らの探偵さんを見上げる。

「それって……どういうこと……? もうお父さん捜しを手伝ってくれないの?」

「ああ。ま、平たく言えばな」

 探偵さんは突き放すように言った。

「ど、どうして……」

 突然の宣告にわたしは泣きそうになって訊ねた。そんなわたしに対し探偵さんは口をへの字に曲げると、軽く肩をすくめた。

「べつに理由はねえよ。強いて言えばもうやるだけのことはやったから、かな。これ以上は個人の手に余らあね。もしミクがどうしても親父さんを捜したいのであれば、悪いことは言わない。警察に行くんだな。前にも言ったが」

「な、なんでよっ。手伝ってくれると言ったじゃないっ」

「「暇なときに」という条件づけでな。だから手伝った。だがあいにくと俺も忙しくなってきてね。ここまでやりゃもう十分だろ。いいかげん満足して諦めろ。な」

「満足なんてできないわ! まだお父さんを見つけていないのに」

 わたしは激高して叫んだ。悔しさと腹立たしさが胸をこみ上げ、わたしは探偵さんをなじった。

「どうして? ねえ、どうしてやめちゃうの!? せっかくふたりでがんばってここまで調べたのにっ」

「だから言ったろ。これ以上続けても意味はねえよ」

「うそだっ。探偵さん、怖くなったんでしょ」

 わたしは嘲笑あざわらった。探偵さんは眉を上げた。

「あ? なにがだよ」

「さっきの事件ことよ。ナイフ持った犯人と出くわしてこわくなったんだ」

 ふいに探偵さんはくるりとわたしにむきなおった。そして頭上から見下ろすと語気鋭く叫んだ。

「ああ怖いね! 今思い返すだけで怖気おぞけが立つぜ。女はガキでもこわいな。なにするかわかったもんじゃない。もうごめんだ。これ以上はな」

「い、遺産が……遺産がほしくないの?」

 わたしは最後の切り札を思い出して言った。

「わたし、お金持ちなのよ。将来すごいお金持ちになるのよ。おばあちゃんがいつも会いに来てくれるのはひなちゃんだけだよって言って、タンスに隠していた預金通帳見せてくれたのよ。それにはお金がたくさん入ってるのよ。1億2千万円のはんぶんはお母さんがもらって、そのはんぶんはわたしと優希がもらって、わたしのもらったお金の半分を探偵さんにあげるわ。だ、だから……」

「おめーは割り算は÷2しかできねーのかっ。そんな夢みたいな話、はなから一切当てにしてねえよ。いいか。よく聴け。俺がお前の頼みを引き受けたのはな、お前が、一人で、孤独で、アホで、頑固で、可哀想だと思ったからだ。金じゃねえ! 馬鹿にすんな」

「ううう」

 わたしは泣きそうになった。それでも涙をこらえてなお言いつのる。

「さ、さっき……さっきの女の人に、わたしのこと依頼人だって言った! 依頼人だって言ったわ!」

「だから今日までつきあったろ。探偵として。子どもはもう家に帰れ」

 探偵さんはおだやかに言った。

 その瞬間、信じられないような怒りがこみ上げ、わたしは大声で叫んだ。

「なによっ。帰れるならとっくに帰ってるわよっ。わたしだってお家に帰りたいわよ! だれがこんなところに好きこのんでいると思ってるのよ。わたしだってこんなことしたくてしてるんじゃない!」

 わたしはあごを突き出すと、あらん限りの声をあげて怒鳴った。

「子どもは帰れですって!? 今のわたしのどこが子どもなのよ? わたしだって子どもでいたかった。ずっとずっと子どもでいたかった。こんな形で大人になんかなりたくなかった! でもそれができないから、どうしようもないから、こうしてがんばってるんじゃないっ。子守なんかしたくないし、おちびちゃんにお勉強を教えるのだって大変だわ。未来を変え、お母さんの運命を変えるなんてむずかしいこと、できるかどうかもわからない。なのに、わたしはしなくちゃならない。こんな地の果てで、スマホもLINEもTwitterもないようなこの世界で! わたしだってやりたくてやってるわけじゃない!!」

 わたしはその場で何度も足を踏みならした。

「なんでこんな目に遭わなきゃならないのって、わたしだって大声で言いたいわよ! でも、それを言っても仕方がないから全部をのみこんでやってるんだわ。知りあいもいない。話し相手もいない。こっちの世界でわたしの知っている人間といえば、あとはお父さんだけなのよっ。だから会いたい、もしかしたら顔が見られるかもしれない、そう思って、そう信じて今日までやってきたのにっ! なのにお父さんに会えないなんて絶対にイヤ。もし会えない、諦めろっていうならわたしもう知らないっ。この場から一歩も動いてやるもんかっ」

 そう宣言するとわたしは幼児のように手脚を投げ出し、大の字になってその場に寝そべった。固いアスファルトの感触が四肢の下いっぱいに広がる。髪に砂がつくのもかまわず、わたしはふてくされて大地に寝転がり続けた。

 わたしの長広舌を、探偵さんは黙って聞いていた。

 それからのろのろと前髪を撫であげると、そのまま手の平を後ろにすべらせ、後頭部をぽりぽり掻きながら閉口したようにつぶやく。

「ったく……。どんだけガキなんだよ。おしゃぶり咥えた俺のめいっ子でももうちょっと聞き分けがいいぞ」

 そしてスーパーのお菓子売り場で駄々をこねる子どもみたいに寝転がった足下のわたしを、跨ぐようにはるか上から見下ろして言う。

「ほれ。立ちな。風邪ひくぞ」

 手を差し伸ばし、わたしの手を掴んで立ち上がらせると探偵さんはポケットに手を突っ込み、肩越しに振り返って言った。

「少し、歩こうぜ」


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