第34話 第2章 ミク―――1980


 繁華街の喧噪に背をむけてわたしたちが歩き出した先は小さな公園だった。

 そこは路地裏の一画に設けられた児童公園で、真西にむかって佇むと、荒れた植栽しょくさいと林立するビルのむこうに静かに暮れていく紫色の空が見えた。もうお家に帰ったのか子どもたちの姿はない。

 どこか郷愁を誘う空気の中、わたしは浅くブランコに腰を下ろした。わたしの傍らで、探偵さんは火のついた煙草を咥えたまま、無言で黄昏時の雲を見上げている。

 ブランコをぐほど童心に返れるわけもなく、わたしは鎖を握ったまましょんぼりとうなだれた。

 ややあって探偵さんが口を開いた。

「それで……どんな人だったんだ? ミクの親父さんは」

「え?」

 わたしは顔を上げた。

「親父さんの思い出だよ。あれから少しは思い出したことがあるだろ」

「……すごく優しかったわ。わたしのこと、すごいかわいがってくれた」

「それだけか」

「大声で怒られたことは一度もなかったわ。物静かな人で、そんなことしなくても、お父さんがほんとうに怒ってるときはすぐにわかったから。でも一回だけ、ものすごく叱られたことがあったわ。四つのとき、お父さんが書いていた原稿の裏にクレヨンでいっぱいお絵かきしちゃったの。あのときはベッドの下に隠れて一生生きていこうかと思ったわ」

 探偵さんは低く笑った。

「ということは親父さんは文筆業かなんかか」

「う、うん。そんなとこ」

 わたしはぎこちなくうなずいた。

 そうか、とうなずくと探偵さんは続けて二口、ゆっくりと煙草を吸った。ふと探偵さんの着ているシャツの胸ポケットが真ん中から縦に断ち切られ、胸の肌が露出していることにわたしははじめて気がついた。

 今になって思う。37年前のあの日、わたしが子どもだったように、このときの探偵さんもまた十分若かったのだ、と。

 会話もとぎれ、二人肩を並べてブランコに腰を下ろしていたときだった。わたしは風に乗ってなにか音楽のようなものが聞こえてくるのに気がついた。一拍遅れて、それが信号機のメロディであることに気づく。

 そのどこか懐かしい、朴訥ぼくとつで親しみ深い音色にわたしは耳を澄ませた。

「この音色……すごく懐かしい気がする」

「ん……? ああ、『故郷の空』だな」

 夕暮れの気配に身を委ねるように口を閉ざしていた探偵さんが身を起こして低くつぶやく。

「スコットランドの民謡だ。明治の頃日本に伝わり、メロディに詞がついて児童むけの唱歌しょうかになった」

「子どもむけ……」

「ああ。いまじゃほとんど聴かれなくなったけどな。昔はいい唱歌がたくさんあったもんだが」

「唱歌かあ。むかしの唄ならわたしもひとつ知ってるわ。……庭に一本なつめの木 弾丸あとも著じるく 崩れ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍」

 わたしは軽く節をつけて歌った。探偵さんは首をかしげた。

「なんだ? それ」

「へへ。知らない。小さい頃、お父さんがよく歌ってたの」

「親父さんが?」

「うん。……昨日の敵は今日の友 語る言葉もうちとけて 我はたたえつ彼の防備 かれはたたえつ我が武勇」

「……いまぞ相見る二将軍―――昨日の敵は今日の友……」

 探偵さんはぼんやりとその唄を口の中で準えるように唱えていたが、ふいにその目に鋭い光が宿る。

 探偵さんは煙草を投げ捨てると興奮した口調で言った。


「ミク……親父さんの出身地がわかったぞ。山口のはぎ、長州だ」


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