第32話 第2章 ミク―――1980


 わたしたちが捜す御形さんの部屋はアパートの二階の端にあった。この時代にあってさえ、老朽化の波がたえず軒先を洗っているような古い建物だった。

 上るとカンカンと音がする鉄の階段を踏み、探偵さんとわたしはその部屋を訪ねた。呼び鈴はなく、ドアの横に『御形重聡しげさと』という小さなプラスチック製の表札が出ている。探偵さんは右の拳を固めると「201」と記されたドアの表面を規則正しく打った。

 返事はなかった。

 探偵さんはドアの中央についた郵便受けをそっと指で押しこんだ。それからドアノブの錠の部分に触れると、その場に腰を落とし、扉の桟や床の足跡を確かる。

「最近帰ってきた跡がある。人は住んでるみたいだな」

 アパートから20メートルほど離れた路肩に車を停め、わたしたちは車内で待つことにした。

「ここに住む住人が御形憲人の弟であるのはまちがいないとして、電話に出ないというのは妙だな。ま、しばらく待つことにするか」

「……ここが、わたしが電話をかけたお家なの?」

「ああ。実際に会ってみれば彼が親父さんの縁に繋がる人物か、少なくとも御形憲人の残りの兄弟の居所もわかるだろう。……やれやれ。この暑い中、俺もご苦労なこった」

「またそんなこと言って。依頼料がほしくないの? なんせわたしは将来、すごいお金持ちに……」

「けっ。んなもんあてになるかよ」

 そう言うと探偵さんは日差し避けにサングラスをかけ、頭の後ろで手を組むと座席を倒した。

 一方、わたしは心臓の鼓動が高まるのを感じていた。お父さんに会える。1980年に跳ばされて以来、ずっと思い描いていた夢が、ここにきて急に現実味を帯びてきたような気がしたからだ。もっともそれはいくらかの不安を含んでいた。たぶん、あまり立派そうに見えないアパートやうらぶれた建物の様子にひるんだ気持ちがあったのだろう。

 もしお父さんに会って、失望したらどうしよう? 思い描いた人と全然ちがっていたら? 

 急にこわくなって、わたしは無意識に膝を揃えた。

(落ち着け。まだ今日会えると決まったわけじゃない……)

 わたしは一生懸命に考えた。

 お父さんがこの時代にいたら18歳ぐらいの青年だ。もしジャーナリストだという御形憲人さんが本当にお父さんの身内だとしても、そのふたりの弟のうちどちらかだというのは少し無理があるような気がする。でも決してあり得ない年齢差でもない。とすれば、わたしはやはり佐賀っ子なのだろうか? この時期、もうお父さんは文学を志しているのだろうか。

 期待と不安。

 その狭間で見え隠れするまだ見ぬ若いお父さんの横顔を想像しながらわたしはどぎまぎしていたが、もっともそれも初めのうちだけだった。一時間しないうちにわたしは早くもこの張りこみごっこに飽きてきた。

 探偵さんも同じなのだろう。煙草を吹かし、つまらなそうに車の天井に目をむけていたが、ふとわたしに目をむけると顔を傾けて訊ねる。

「なんだ? それ」

「え?」

「その、腰の人形みたいな奴。キーホルダーかなんか?」

 わたしがスカートのベルト紐につけている雪ミクちゃんのストラップを探偵さんはあごで示した。わたしは口をとがらせた。

「キーホルダーじゃないわ。わたしの大事なお守りよ」

「ふーん」

 さらに三十分が経過し、午後の日差しとだるような熱気に車内の空気がまったりと沈んだとき、それまで身じろぎせずにいた探偵さんが痩身を起こすと、吸いさしを吸い殻まみれの灰皿の中に突っこんで言った。

「ここにくる途中にタバコ屋があったからもう一度そこで公衆電話をかけてくる。案外、部屋にいるのかもしれん。ついでになにか買ってこよう。なにか食いたいものあるか?」

「ミルクカステラとカツゲン」

「カツゲンな。わかった」

「わたしが行ってこようか?」

 探偵さんは笑って首を振った。そして運転席のドアを閉めると屋根に手をかけて言う。

「ここでアパートを見はってろ。絶対車から出るな」

「うん」

 携帯やスマホがない世界って本当に不便だな、とあらためて思いつつ、わたしはこの狭いカナブンの中でできる限り手脚を伸ばした。

 その拍子に出かけに防災マップを持ってきたことを思い出し、ポケットから折りたたんだそれを取り出して広げる。

「ええと、これが学園都市線で、ここが新琴似しんことにだから……うーむ……ここは北区のあたりかしら」

 赤やオレンジ、黄色のドットで色分けされた震度予想エリアを、実際に震災を体験した未来人の視点で眺めていたときだった。

 ふと顔を上げたわたしはフロントガラスのむこうで例のアパート、それもさっきわたしたちが訪ねた201号室に一人の男の人が入っていくのを認めた。

「……!」

 思わず身を乗り出したわたしの視線の先で、ドアはいったん閉じられた。が、すぐにまた開かれるとその人はドアに錠らしきものをかけ、とんとんとリズミカルに外階段を駆け降り、路地を通りにむかって歩き出す。

 上下とも黒っぽい服を身につけた、背の高い人だ。

(ど、どうしよう―――)

 わたしは焦った。あの人が御形重聡なのだろうか。それともひょっとして―――……。だとしたら早く引き留めないと話を聞く機会を逃してしまう。

 でも、探偵さんには車を出るなと言われたし……。

 わたしは必死に車の中から通りを見返した。探偵さんが戻ってくる気配はない。

 ええい、とわたしはとっさに心を決めるや車のドアを開けた。

 そして小走りに駆けると、路地を歩いているその人に背後から声をかける。

「あのう、すいません」

「え」

 わたしの声に男の人は振り返った。

 まだ若い、二十歳すぎくらいの日に焼けた男の人だ。わたしを見ておどろいたのか、その眉がわずかに持ちあがる。

 わたしはどぎまぎしながら訊ねた。

「あの、おたずねしたいんですけど……御形さんですか?」

「いえ、ちがいますが」

 すぐに無表情に戻り、その人は短く言った。目つきにどこか険がある。わたしは重ねて訊ねた。

「あ、あのわたし、あの家の御形さんにお会いしたくてここにきたんです。それで、今あなたがあのお部屋から出てくるところを見たので……」

「ああ。ぼくも友達を訪ねてちょっと立ち寄ってみただけです。でも留守だったようだ」

「そ、そうですか……どうもすみません」

 でも今あなた、鍵を使った……そう言いかけてわたしは口をつぐんだ。少し遠かったし、もしかしたら見間違えたのかもしれない。

 なんとなくいぶかしく思いつつ、わたしはぺこりと頭を下げた。がっかりすると同時にどこかほっとした感じがしたのは、やはりお父さんに実際に会うのをおそれる気持ちがあったからだろう。

 なんだか気が抜けて、車の中に戻ろうとしたときだった。わたしは路地の正面に背広姿の男の人が二人立っていることに気がついた。一人は痩せており、一人は太っている。男は脚を止めた。背広の人たちはまるで学校の先生みたいにいばっているように見えたが、そう思えたわけがわかったのは二人のうち一人が内ポケットから黒いものをちらりと出したときだった。

「布部さんですね。警察です。署までご同行願いたいのですが」

「はあ。なんです?」

「ご同行を」

「はあ」

 男の人がうなずいたのと、そのポケットからなにか光るものが鋭く宙に弧を描いたのが同時だった。背広を着た男の人が一瞬ひるんだ隙をついて、手にナイフを握った男の人は反転すると一目散に駆け出す。

 突進してきた先は、わたしだった。

(嘘、まじ……?)

 わたしは凍りついた。

 そこからの記憶は錯綜している。

 ナイフを突きつけられ、男に後ろから抱きすくめられたわたしは棒立ちになったまま、血相を変えた背広姿のおじさんたちとむきあった。果物ナイフの切っ先が落ち着きなく左右に揺れるのを至近距離でながめながら、これじゃあ人は殺せないと思ったのをおぼえている。でも、顔に傷がつくのはイヤだな。

「やめろ! 刃物を捨てろ!」

「―――……」

 刑事さんの声に男は押し黙ったままじりじりと後退する。

 わたしは肘でヘッドロックされたような状態で、男といっしょになって後ずさりした。妙に呼吸が合い、ダンスみたいにさらに五、六歩退いたとき、視界の右端にレモンイエローのボンネットが見えた。

 丸みを帯びたどこか愛らしい形の車体。開けっぱなしの窓。煙草の吸い殻で一杯になったシフトレバー前の汚い灰皿―――。

「ミク」

 ふとすぐ間近で探偵さんの声がした。

 おどろいて首を巡らせた瞬間、わたしの視界が激しく斜めにずれた。十字路の塀の背後に立っていた探偵さんが犯人に襲いかかったとわかったのは、彼に手首を掴まれて引き倒され、その広い背中とシャツの裾が大きく翻るのを地面から見上げたときだった。

 きらっと一、二度ナイフの切っ先が瞬いた刹那、犯人の両脚は高々と宙を舞い、その身体は路上に勢いよく叩きつけられていた。

 ネクタイを揺らし、刑事さんが殺到する。

「ミクっ、大丈夫かっ」

 ふいに力強い手に抱え起こされ、わたしは立ち上がった。と思うなり、息つく間もなく探偵さんの腕の中にきつく抱きしめられる。

「…………!」

 早鐘のように脈打つ探偵さんの心臓の鼓動を耳にしたとき、わたしははじめて恐怖を感じた。





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