第77話 第5章 ひなた―――2017



 わたしたちは並んで歩き出した。

 大通公園を出て国道230号線を渡ると、そのまま折り返すように旧道庁の方角へとむかう。建物の外観が厳めしく、大きくなるにつれ地震の被害は少なくなるらしく、あたりのながめは震災前とほとんど変わらない。

 一瞬、自分が震災前の札幌ではなく、記憶に残る昭和55年の街並みを求めているような気がして、わたしは無言で車道を流れる車の列を追った。

 探偵さんが言った。

「で、お袋さんの具合はどうなんだ? もういいのか」

「元気よ。じき退院するわ」

「そうか」

「探偵さんは? 大丈夫だったの?」

「ああ。事務所の中のものが派手にふっ飛んだが、幸い怪我はなかったよ。北区や厚別区のあたりはずいぶん揺れたらしいが、このへんは被害も軽かったからな」

 そう言って煙草を咥える探偵さんの仕草に昔の記憶が甦り、わたしは思わず口をとがらせて言った。

「探偵さん、まだ吸ってる」

「あん」

「煙草よ。身体に悪いんだからいいかげんにやめたらいいのに」

 探偵さんはいたずらっ子が悪戯が見つかったような顔をした。

「じつは丸9年吸ってなかった」

「えっ」

「吸い出したのはついさっきさ。がんをかけたんだ。あの手紙を出して、もし待ちあわせ場所のテレビ塔の下にミクが立っていたら、そのときは禁煙をやめて一服しよう、とな。だからこれは9年越しの煙草さ」

「―――」

「もっとも、久しぶりに吸ってみると燃えた紙の味しかしないな。煙草のうまさを思い出すにはもうしばらくかかりそうだ」

「……なにそれ。馬鹿みたい」

 返事につまったあげく、わたしはやっとそれだけを言った。男の人ってよくわからない。時々真剣にばかげたことをするんだもの。

 やがて探偵さんの脚はとあるビルの前で止まった。そこは時代を感じさせる古い石造りの建物で、煤けて黒ずんだごつごつした軟石なんせきが装飾となって外壁全体を覆っている。格子の嵌まった分厚い窓ガラスを覗いてみると明かりがついており、人が動いているのが見えた。

「ここは……?」

「銀行さ。ここに君が受け継ぐ遺産が眠っている。古来から、大金の眠っている場所と言えば銀行と相場が決まっているからな」

「ええーっ。い、遺産って……探偵さん、本気だっの!?」

「もちろんだ。俺は執念深いたちでね。ミクのばあさんについてはすでに調べさせてもらっている。今人が来るから待ってな」

「ち、ちょっと待って探偵さんっ、遺産と言ってもわたしのおばあちゃんはまだ生きているのよ。それにむかしの通帳を見せてもらった感じ、あのお金は……」

「わかっている。心配するな」

 あわてて言いかけるわたしに探偵さんはほおをほころばせた。

「じつはな。俺は生前の御形陽介と何度か会ってるんだ」

「―――! お、お父さんと……?」

「ああ。あれは親父さんが亡くなる数年前のことだから、君はもう生まれていたろう。ある日、俺は親父さんから連絡をもらった」

 探偵さんが教えてくれたところによれば、わたしがあの時代から去ったのちもお父さんと探偵さんは時々連絡を取っていたという。お父さんにしても「初音ミク」の存在を知り、語れる人間は探偵さんしかいなかったのだろう。ふたりは何度か会って言葉を交わした。といっても実際に会ったのは37年の間に数えるほどだったそうだけど。

「親父さんとはもう十年以上会っていなかった。すでに彼は作家として名を成していたが、その電話は久闊きゅうかつを叙するものではなく、仕事の依頼だった。義理の母が大切にしているあるものを銀行の貸金庫に預けたいので俺にその立会人になってもらいたいという、な」

「おばあちゃんが……?」

 初めて聞く話にわたしは固唾を呑んだ。

「ああ。彼がなぜ俺を思いついたのかはわからない。あるいは君にまつわるよしみから俺のことを思い出したのかもしれない。話を聞いた俺は探偵の仕事から外れると思い、代わりの人間を紹介して断ったが、たっての頼みとのことでその場に立ち会うことになった。それがこの銀行だ」

 わたしはぼうぜんとこの古めかしい昔の建物を見上げた。

「当時、君のおばあさんは70を越えたばかりでな。十分に達者だった。俺はわざわざ立会人まで立てて銀行の金庫にものを預けようとする彼女に疑問をおぼえ、わけを訊ねた。すると彼女は言った。自分はいつ何時なにがあるかわからない。これは大切なもので、自分が亡くなったあとも孫娘に遺しておいてやりたいから―――と」

「わ、わたしに……?」

「ああ」

 探偵さんがうなずいたとき、対面の通りに一人の男の人が立っていた。


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