第46話 第4章 ミク―――1980
「お受験?」
おばあちゃんは手元の漢字ドリルの丸つけの手を止めて首をかしげた。わたしはうなずいた。
「はい」
「なんだい。突然」
おばあちゃんは苦笑した。そして眼鏡をかけた顔を再び紙の上にもどす。
「そりゃあ、考えないこともないけど……ただでさえうちはよその子を教えて忙しいし、なによりあれは覚悟の問題だからねえ。果たしてそれをやるだけの価値がうちの子にあるかどうか」
「でも透子ちゃんはすっごく頭がいいでしょう」
わたしは熱心に言った。
「だったら小学校受験をするべきだと思うんです。それに、この間聞いたら本人も違うお勉強をしてみたいと言っていたし」
「まあねえ。お父さんも似たようなことを言っているし、もしするんなら、そろそろ本気で考えないといけない時期なんだろうけど……。でも、どうしてあんたがそんなことに興味を持つんだい?」
「そ、それは……すごくもったいないから」
わたしは一瞬つまったのち、顔を上げて言った。
「もったいない?」
「はい。頭のいい子がいろんな挑戦しないのはもったいないと思います。その力があるんなら、受けてみるべきだと思います」
わたしが思いついた、お母さんの未来を変える唯一の方法。
それは来年一年生になる透子ちゃんに有名私立小学校を受験させ、それによってお母さんの未来の方向性を根本から変えてしまうというものだった。
もともと受験に関してはわたしが最初に言い出したわけではなかった。
三人兄妹の末っ子らしくふだんは甘えん坊だけど、ことお勉強に関しては輝くような才質を見せる透子ちゃんの将来については家族の雑談の中でもたびたび話題に上がったし、またおじいちゃんとおばあちゃんの間でもそうした受験や進学に関する話しあいはあったにちがいない。
だがひとつだけわかっている事実は、わたしのいた世界でお母さんは小学校受験はしていないということだ。
齢六歳にして高いIQを誇り、神童の片鱗を見せるお母さん。
このままの時間軸で行けば、お母さんは来年四月には近所の子に混じって地元のごく平凡な小学校の入学し、やがてその後の人生の大半を地元札幌ですごすことになる……。だが、もしここで何者かがその時間の流れに介入し、透子ちゃんがお受験をすることでその後の進路や人生が大きく変わるとしたら―――?
むろん、こんなことでお母さんの運命が変わるかどうかはわからない。ちっとも変化しないかもしれないし、たとえ変わったとしてもあの震災で死を免れないかもしれない。でも、これが今のわたしに思いつく、もっとも未来改変の可能性が高く、もっとも変化予測の振れ幅の大きい選択肢だった。
「それに、わたしのお母さんも塾の先生なんです。だから透子ちゃんのことも他人事に思えなくて……」
「ああ。そういやあんたのお母さんも先生だっけね」
わたしの言葉を何となくうろんげに聞いていたおばあちゃんは腑に落ちたようにうなずいた。わたしは熱心に膝を進めた。
「は、はい。だからもし透子ちゃんが受験するなら、わたしも手伝えると思って」
「ふうん」
史実(?)どおり、お受験にはあまり乗り気ではないのかおばあちゃんは淡々とうなずいたが、わたしは諦めなかった。
翌日、おじいちゃんにも同じことを訴えると、さらに内緒で幼いお母さんに働きかけて、「とっこ、もっとかしこくなりたい。たくさんおべんきょうしたい」と日頃から両親に言うようにせっせとしむけた。
ラッキーだったのは、ちょうど同じ頃、お母さんが春先に受けた児童用の「学力診断テスト」の結果が出たことだった。お母さんの成績はダントツのトップで、採点教師による寸評は全行褒め言葉の言葉で埋まっていたが、この事実も透子ちゃんの進路について一石を投じたことになったのだろう。ここにきてようやくお母さんの進学先をどうするか、家族内で会議が開かれることとなった。
「透子の進学先のことなんだけどね。地元の学校に通わせるか私立に行かせるか、どうしようかと思ってねえ。確かに真剣に受験を考えるとなると、そろそろ準備しなければいけない時期だし」
夕食後、卓を囲んだ家族を前におばあちゃんが口を開いた。当のお母さんはすでにパジャマに着替え、隣の部屋で寝入っている。
「その受験先って付属小だろ? 確かあそこ父母面談があるんだぜ。ふたりとも大丈夫なのかい?」
からかうような豊おじさんの言葉におばあちゃんはそっと
「まあねえ。しかも受かったとしても今度は家から通いだからね。校区の中の学校と違い、子どもの足で毎日通学できるかどうか」
「札駅から電車で通うことになるんでしょ。ランドセル背負って。そこまでして進学校に行く必要があるの? とっこくらい賢ければどこの学校でもお勉強はできるはずでしょ」
「そうだねえ。冬の吹雪の日とか大変だし、朝は早いだろうし、それを考えるとねえ……。わたしもお父さんもこれから忙しい時期に入るし」
緩やかにお受験取りやめの方向に進んでいく会話を横で聞きながら、わたしは泣きそうになった。やっぱり駄目なんだろうか。お母さんの運命を変えるなんて、どだい無理な話だったんだろうか。会話の流れになんとか
「あ、あのっ……わ、わたしが手伝います。とっこちゃんのおべんきょう……!」
「ばかね。あんたに何ができるの。いいから黙ってな」
節子おばさんに優しくたしなめられ、わたしがしょんぼりうなだれたときだった。それまでずっと黙っていたおじいちゃんが口を開いた。
「させてみるか」
「えっ」
みんながおどろいたようにいっせいにおじいちゃんの方を見る。
「おとうさん、本気?」
「ああ。透子が行きたいというのならやらせてみたらよかろう」
おじいちゃんはふわふわの白髪頭を振ってうなずいた。妙にきっぱりとした口調に周囲はとまどったようだった。ややあっておばあちゃんが口を開いた。
「でも……透子はまだ小さいよ。いくら本人の意思と言っても」
「六つにもなれば十分自分の意思を持っているさ。自分のことは自分で決められる。だいたい、日頃子どもの相手をしているお前がそんなことを言ってどうする」
「そうは言うけど父さん、けっこうな挑戦だよ。わたしらも相応の準備をしなくちゃならないし」
「かまわんさ。進学校に行くことで透子の学が成るというなら、ひとつやらしてみようじゃないか。なにも自分の子どもを放っておいて人様の子ばかり育てることもあるまい。
「それはそうだけど……。また学費がかかるねえ」
「その時はその時だ。だいいち、まだ受かると決まったわけでもあるまいに」
おだやかにそう言うと、おじいちゃんはわたしに顔をむけた。
「ミクさんや」
「は、はいっ」
わたしは居住まいを正した。
「あんたは母さんに透子の受験の勉強を手伝うと言っとるらしいな。そんなに透子をいい学校に入れたいのかね」
「い、入れたいです。……だって透子ちゃんはいい子だから」
わたしはやっとそれだけを言った。
おじいちゃんはうなずいた。
「けっこうだ。わしらは教師として生徒の前で日頃偉そうにしておきながら、こういうことにはうとくてのう。あんたに手伝ってもらえたらうれしい。もしあんたがしっかり透子の面倒を見て、あれにいろんなことを叩きこんでくれたら、きっと透子は豊かな人生を送ることができるじゃろう」
「はいっ」
こうしておじいちゃんの鶴の一声で、お母さんの進路は決まった。それは同時にわたしの肩に文字通りお母さんの命がかかっていることを意味した。
責任は重大。
わたしははりきった。
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