第60話 第4章 ミク―――1980


 カレンダーの11日にマジックで丸をつけ大きく『帰宅』と記すと、この世界を去る準備を始める。まず受験前の総復習として透子ちゃんに勉強のおさらいをさせると、おじいちゃんとおばあちゃんにももう一度親子面談の特訓をする。面接時に何を聞かれるのか、どんなことを話せば試験官の先生方に気に入られるのか、わたしの知っている情報はすべて与え、万が一にも失敗しないように念には念を入れる。

「いい? おばさん。ぜったい透子ちゃんのことを褒めたら駄目よ。こんな場で自分の子どもを褒めてもみっともないだけなんだから。あくまで謙虚に、つつましく、でも自分の意見ははっきりとね。忘れないで。わたしがこう言っていたことを……。わたし、どこにいたって、透子ちゃんの幸せを祈ってるから」

「なんだい。まるでもうすぐお別れするみたいな言い方だね。大丈夫だよ。わたしも父さんもうまくやるよ」

「まったくだ。これでようやくこのつらい特訓が終わると思うと涙が出るわい」

 おじいちゃんとおばあちゃんは笑って言った。わたしはあやうく涙がこぼれそうになった。そして思う。

 うまくいってほしい。

 どうか、神様。

 お母さんを助けて。

 こんなことで未来が変わるかどうかはわからない。まったく無駄なことをしているかもしれない。でもこれが、今のわたしができる精一杯のことなんです。今のわたしが思いつく最大限の運命への抵抗。

 だからお願い。お母さんの命を助けて。

 祈るような思いを抱きながらわたしは残り少なくなったこの世界での日々を懸命にすごした。一日一日を、この1980年ですごす最後の日だと思って生活する。皮肉なことに、残り時間が少なくなってからわたしはようやくこの時代に愛着をおぼえ始めていた。変なの。はじめはつらいことばかりだったし、泣いてばかりだったけれど、いつしかわたしはこの時代がとても好きになっていた。活気に満ち溢れた社会も、おでこをぶつけるみたいに未来にむかって前のめりに突き進んでいく人々も、そのやたら楽天的でポジティヴな世界観も。排気ガスと煙草の煙にはとうとう最後まで慣れることはなかったけれど。

 11月11日まで残り数日になった週末、わたしは探偵さんを訪ねた。

 この間別れたとき、なんだか逃げだしたような格好になっていたし、最後にきちんとあいさつをしておこうと思ったのだ。探偵さんとはあれっきり会ってはいなかった。

 大通にある汚い雑居ビルの階段を上り、四階の『黛探偵事務所』を訪ねる。ここを訪ねるのはひどく久しぶりな気がした。

 事務所の扉を開けると探偵さんは留守だった。

 机と電話と灰皿と来客用のソファーだけが置かれた簡素な事務所は、まるで時の流れに取り残されたようにひっそりと静まりかえっている。

(鍵くらい、かけていけばいいのに……)

 わたしは視線を巡らせ、あいかわらず殺風景な室内を見渡した。五分後にも探偵さんが帰ってきそうな感じがする一方、半年このまま留守であっても少しもおかしくない気もした。

「なんだミク。来てたのか」

 と、いつもの無精髭を生やした探偵さんがぽりぽり頭を掻きながら事務所に入ってきてくれることを期待して、わたしはしばらく古ぼけたソファーに腰を下ろして待っていたが、いつまでたっても帰ってくる気配がないので、あきらめて置き手紙を残していくことにする。

 わたしは机にむかうと、鉛筆でメモ帳にこう記した。



たぶん、あなたの想像どおりです。今までありがとう。父を見つけてくれて感謝しています。探偵さん、元気でね。


ps.依頼料払えなくてごめんなさい。でも、あの遺産の話はホントに嘘じゃなかったのよ。

                              初音ミク



 そして少し迷ったあと、腰につけた雪ミクちゃんのストラップを外す。それは、タイムスリップして以来、こっちの世界でいつも肌身離さず身につけていたものだった。それを手紙の脇に置く。

(探偵さん……元気でね)

 わたしは部屋に一瞥を投げ、そっと事務所を後にした。



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