第18話 第2章 ミク―――1980


 その数日後、わたしは幼いお母さんの手を引いて豊平川へ出かけた。

 以前は通い慣れたこの土手も、足をむけるのはこっちの世界で目を覚まして以来のことだった。この日お母さんは買ってもらったばかりの赤い長靴を履いていた。新しい靴がうれしいのか、お天気なのだから脱ぐように言っても聞かない。

 わたしのポケットにはバッテリー残量が残り4パーセントとなったスマホが入っていた。おそらく今日中にバッテリーは切れるだろう。その前に何かこの時代の記念になるものを、カメラに収めておこうと思ったのだ。ついでにミクちゃんの人形ストラップをスカートのベルト釣りに引っかける。いつしかこれはわたしのお守りのようになっていた。

 かすかな磯の香りを含んだ風に吹かれながら二人で川べりを歩く。河岸のむこう、急なせせらぎの真ん中に細長い中州なかすが見えるところまで来たときだった。ふと土手の中腹の草むらに見覚えのある男の子が寝転んでいることに気がついた。

「ゆうにーちゃんっ」

「よう。とっこ」

 それは怪我したわたしを家までおぶってくれた、あの学生服の男の子だった。男の子は身を起こし、駆けてきた小さなお母さんの頭を撫でたが、その左の口元に大きな痣ができていることにわたしは気がついた。よく見ると頭髪は乱れ、制服のあちこちが土埃で汚れている。

 男の子はわたしを認めて言った。

「よう! 元気そうだな。もういいのか?」

「う、うん」

 わたしはちょっと赤くなった。それからあのときこの子に世話になったきり、お礼の一言も言っていなかったことを思い出した。

「あ、あの、この間はどうもありがとうねっ」

「ん。ああ」

 鼻先を手の甲でこすり、その子はふといたずらっ子めいた笑みを浮かべた。

「まあな。つうか、おめーのゲロ、掃除したの俺だからな。少しは元気になってもらわないと割にあわねえ」

「えええーっ」

 わたしは恥ずかしさに死にたくなった。同時に、あの日繰り広げた様々な醜態が脳裏に蘇る。

 その子はお母さんの手を引くと川べりを歩き出した。わたしはおじいちゃんがこの男の子のことを「優坊ゆうぼう」と呼んでいたことを思い出した。

「俺、あのあと一度様子見にいったんだ。そうしたらおばさんが、お前はまだ寝てるっていうからさ。そのまま帰ってきた」

「えっ。そうだったの……!? ご、ごめんね」

 わたしは思わず嘆息した。もう、おばあちゃんったら一言言ってくれればいいのに。こういうが大らかなところはむかしから変わらないらしい。

「それで、あれからどうなったんだ? お袋さんは見つかったのか?」

 あの日、わたしが錯乱の中でお母さんを探していたことを思い出したのだろう。男の子は歩きながら訊ねた。

「う、ううん。まだ」

 わたしは首を振った。そしてお母さんはまだ行方がわかっていないので、見つかるまではおじいちゃんとおばあちゃんのあの家にお世話になることになったという例の嘘半分の事情について説明する。

 男の子は深くうなずいた。

「そうか……。元気出せよ。母ちゃん、きっと無事でいるさ」

「うん」

 わたしはうなずいた。それは短い一言だったけれど、わたしはずいぶん励まされた。とそのとき、小さなお母さんがあごを上げて言う。

「みくおねいちゃん、とっこのおうちで暮らしてるんだよ。あたらしいせんせいになったの。ごはんもいっしょに食べるんだよ」

「先生?」

 その子は目を丸くした。どこか荒っぽい男の子だけど、そんな表情をすると年相応に見える。年齢はわたしと同じくらいだろうか。

「へえ。じゃあとっこはねーちゃんが一人増えたな。でも、その歳で先生ってすげーなお前。俺、勉強教えるなんてぜんぜんできないや」

 男の子はすっかり感心して言うと、ふわふわのくせっ毛を風に揺らして笑った。

「俺は優。重嶺しげみね優。よろしくな」

「わたしは……ミク。初音ミク」



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