第19話 第2章 ミク―――1980


 わたしたちはお母さんを伴って歩き出した。

 先日、この近所に住んでいたと言ったのは記憶違いだったと話したら、「じゃあ、街中を案内してやるよ」と優くんが言い出したのだ。気の早い子で、そう言うなりさっさと歩き出す。わたしはついていくことにした。

 のちに知ったところによれば優くんは中学二年生で、わたしよりひとつ年上だった。同じ町内に住んでおり、おじいちゃんとおばあちゃんとは子どもの頃からの顔なじみで、ちょうど今のお母さんが遊んでもらっているように、小さい頃は豊おじさんによくおんぶしてもらったらしい。ただ中学に上がってからは素行が荒れ、評判もよくないという。大病院の息子で、お家はかなり裕福らしい。

 学ラン姿の優くんに導かれるままに左右を車線に挟まれた創成川を渡り、わたしはビルの立ち並ぶ街にむかった。こっちに来るのは意識を取り戻して以来はじめてのことだった。なにもかもがめずらしく、わたしはしきりにあたりを見回した。

「えーと、右の方に行くと札幌駅でこの道沿いに時計台がある。すんげえちっこいけどな。んで、もうちょっと行くと赤レンガの道庁。あっち側は大通公園だ」

 いかにも男の子らしいざっくりした説明を聞き流しつつ、わたしは懸命に目の前の光景と記憶の中にある札幌とを懸命に重ねあわせた。そんなわたしの傍らを車の群れがひっきりなしに通過してゆく。前から思っていたけれど、この時代は排気ガスがひどい。お尻からもうもうと煙を吐き出し、どの車もまるで何かにせき立てられているみたいに走っている。

(このへんはあまり変ってない……。繁華街だからかな……)

 見たところ、街並みは変らない。

 いや、変わっているのだろうか。よくわからない。だんだんと未来の景色を思い出せなくなってきている自分に気がつきつつ、その後の街の変遷へんせんを知る未来人のまなざしで、わたしは1980年の札幌を観察した。すごく活気があるのはまちがいない。人も、車も、街並みさえも、猥雑わいざつなエネルギーに満ち、溢れんばかりの自信を漲らせているように見える。

 国道36号線に出ると、その印象はいっそう強くなった。札幌駅前通りから大通り方面へと連なる往来の中に紛れたとき、わたしはまたちょっと怖くなった。

「なんか……みんな生き生きしてるね。街中がわくわくしてるっていうか」

 颯々さつさつと行き交う人の群れと遠慮なしにぶつかってくる人々のまなざしがまるでつぶてのように感じられ、わたしはたまらず目を伏せると同時に思わずお母さんの手を強く握った。

 今と昔、たくさんの違いはあるけれど、基本的にこっちの人たちは人の視線を全然気にしない。だれもが堂々としてるし、胸を張っていばってる。いや、いばってるとは少しちがう。自分が自分らしくあることをこの人たちは少しもおそれていないのだ。みんな自分がやりたいことをしているし、前へ進もうとしている。きっとそれが大きな活力となってこの街を活発に賑わせているのだろう。

 そんなようなことをたどたどしく言うと、優くんはぱちぱちと瞬きした。

「お前、変わった奴だなあ。俺、そんな風に街を見たことなんてなかったよ」

「そ、そうかな」

 やがて林立するビルの切れ間から赤い塔の先端が見えてくる。青い空を貫くおなじみの赤い色、人目を奪う大きな電光時計。テレビ塔だった。

 わたしたちはその麓に伸びる大通公園の中をぶらぶら散歩した。

 しばらくして優くんが言った。

「わかった。ミク、お前、都会っ子だろう」

「都会っ子?」

「ああ。だからこの街の様子がめずらしいんじゃないのか? 家、東京か?」

「ううん。ちがう。が、外国よ。わたし……そのう、帰国子女なの」

 わたしは先日でっちあげた嘘の設定のことを思い出して言った。

「へえ。どこに住んでたの?」

「え!? え、ええと、そのう……ロ、ロ、ローマ」

 わたしはおととし家族で行った唯一の海外旅行先を思い出して言った。これ以上突っこまれたら困ると思ったが(なんせイタリア語なんてボンジョルノとミッレ・タンテとプリマヴェーラしか知らないし)、幸い優くんは「ふーん。すげーな」とだけ言うと「俺も行ってみたいな」とつぶやいた。が、すぐに首を振って苦笑する。

「無理か。頭悪いし、イタリア語なんてスパゲティしか知らないもんな」

「とっこ、スパゲティすきだよ」

 ベンチに脚を投げ出し、お母さんがまわらぬ舌で口を挟む。わたしと優くんは笑った。

 その後、わたしたちはベンチに腰を下ろし、春の陽気や花壇に咲き誇る花の数々を楽しんだ。公園内に外国人観光客の姿がないのは変な感じがしたけれど、緑の芝や青空にむかって綺麗な放物線を描いて水を跳ね上げる噴水、なにより37年後と少しも変わらぬ花の色がわたしにはうれしかった。

(花は変わらないんだ……。どんなに時間を経ても変わらないものはある)

 ライラック、レンゲツツジ、チューリップといったおなじみの花に久しぶりに触れたような気がしてわたしがすっかりリラックスしたときだった。優くんがしみじみと言った。

「にしても、親とはぐれたのにここに一人で残るなんて偉いなあ、お前。あの家ではうまくやってるのか?」

「んー……まあまあ、かな。少し慣れてきたよ。はじめは大変だったけど」

「でも久我のおばさん、けっこう厳しいだろう。俺もちびすけの頃、あのおばさんに勉強習ったことあるけど、なまら厳しかった」

「あら、そんなことないわ。けっこう優しいよ。おばあ……おばさん。わたしは好き」

「ふーん。お前、やっぱり変わってんな」

 優くんは首をかしげて言った。わたしは口をとがらせ、逆に訊ねた。

「わたしのことより、優くんはどうなのよ」

「え。俺?」

「うん。あの川の土手でなにしてたの? ずいぶん泥だらけだったけど」

「なにって……昼寝、かな」

 優くんは鼻をこすって笑った。

「昼寝? なにそれ」

「へへへ。あと考えごとかな。なんもねえ場所で、ただ川の音を聞きながら風に吹かれていると、自分がどんどん空っぽになっていく感じがしてすごく気持ちいいんだ」

「……ふうん」

 なによ。そっちだってじゅうぶん変な子じゃない……とわたしは胸の中で独りごちたときだった。

「ゆーにいちゃん、あごー」

 と小さいお母さんが優くんの下あごの痣を指さした。「ん? ああ」と優くんはあわてて手の甲で口元をぬぐうと照れくさそうに笑った。

 その後、わたしははじめて路面電車に乗った。三越デパートのある南一条通りの前を歩いていたとき、対面の通りに小さな停車場があり、そこに緑色と黄土色に塗られた小ぶりな電車が入ってくるのが見えたのだ。

 どこか丸みを帯びたフォルムの電車が、車体をコトコト揺らしながら通りのまん中をやってくる。

「お、チンチン電車だ。乗ってみっか」

「チンチンでんしゃ?」

 優くんにうながされ、わたしはその電車にとび乗った。それが市電の愛称のことなんだとわかったのは電車が動き出したあとのことだった。しかも電車は街とは逆むきに走っていく。

(そっか。この頃はまだ環状線になってないんだ……)

 昇り口の高い木の床板といくぶん毳立げばだった対面式の横長のシート、車体の揺れにあわせて左右に一斉に傾ぐ革の吊り手に懐かしさをおぼえつつ、わたしは窓辺に張りついたお母さんの赤い長靴を脱がせた。そしていっしょに窓の外をながめる。目の前では大小のビルがどこか雑然と軒を連ね、古めかしい街並みとなって流れていく。

(こっちは西八丁目だ。ということは節子おばさんの勤めてた区役所はこっち側に―――)

 あの日、震災の起こった直前にハザードマップを取りに行ったのと同じ道のりを辿っていることに気づき、眠気を誘うような揺れの中、ガラス窓に額を押し当てたわたしが目の前の景色をながめていたときだった。

(……?)

 わたしはわずかに身じろぎした。そして沿線沿いにすぎていく表通りに目をむける。わたしの動きに気づき、優くんが言った。

「ん、どうかしたか? ミク」

「う、ううん。なんでもない」

「とっこ、おなかすいた」

 お母さんが言った。わたしは窓から視線を外してうなずいた。

「そうだね。もうおりよっか。そろそろ帰らないとだし」

「よし。戻るか」

 電車から降り、わたしたちは徒歩で帰った。

 途中、おねむになってきたのか目をこすり出したお母さんがおんぶしてもらいたがったため、優くんはお母さんを背中に背負ってくれた。この子はいつも誰かをおんぶしている、とわたしはそれが面白かった。

 優くんは口数の多い男の子ではなかったけれど、それでもわたしにいろいろ気をつかってくれていることはわかった。きっと今日も、いつも一人ぽっちでいるわたしを慰めるために街の案内役を買って出てくれたのだろう。なにより、この世界に来て初めて友達ができたことがわたしにはうれしかった。

「じゃあな、ミク」

「うん」

 再び豊平川のほとりに戻ってきたわたしたちはいつもの土手の上で別れた。

 さすがに重かったのか、お母さんを「よいしょ」と下ろし、いくぶんへこたれた様子で去っていくこの少年にわたしは声をかけた。

「あ、優くんっ」

「―――ん?」

「今日はどうもありがとう。でも、けんかはもうやめてね」

「あぁ?」

 優くんは一瞬、鼻白んだようだった。


 その日、スマホのバッテリー残量は0パーセントとなった。





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