第17話 第2章 ミク―――1980


 子どもの頃、自分の名前が不満でお母さんに食ってかかったことがある。クラスの男の子に「ひなたぼっこ」などとからかわれ、本気で憤慨していたときだからたぶん小学校四年生くらいのときだ。

 家に帰って事情を話すと、お母さんはひとしきり笑ったあと慰めるように言った。

「ひかげよりひなたのほうがずっといいじゃない。明るいし、あったかいし、元気な感じがするでしょ。なんてたってサニーサイドだもの。気にすることなんてないわ」

「気にするわ。わたし、もうちょっとちがう名前の方がよかったわ」

 悩みをあっさり片づけられ、わたしはむくれて言った。そして訊ねる。

「わたしの名前、お母さんがつけてくれたの?」

「ううん。お父さんよ。あなたがお腹の中にいた頃は忙しい時期で、朝から晩まで原稿を書いていてね。あまり考える暇がなかったみたい。あなたが生まれて、いよいよ名前をつけなきゃいけないってなったとき、明るく元気な子に育つように「ひなた」にしようって」

「はあ……」

 あまりぱっとしない理由にわたしはがっかりした。仮にも作家なんだから、娘の命名くらいもうちょっと気をつかってもいいだろうに。

「どうせなら、もっと凝った名前がよかったなあ」

「例えば?」

「そ、それはわからないけど……」

 胸にしまった秘密を見透かされたような気がしてわたしは赤くなった。そんなわたしを見て、お母さんは笑って言った。

「でも、これでよかったのかもしれないわよ。あれでお父さん、けっこう凝り性だから、本気で名前を考えたら、今頃ひなはちがう名前で呼ばれていたかもよ。お仕事で時代小説とか書いてたら武将の名前とかつけられていたかも」

「ぶ、武将の名前?」

「そ。景虎とか」

 御形景虎。どんな娘だ。

「……氏康とか早雲とか道三とか?」

「そ。宗茂とか清興きよおきとか信繁とか隆景とか」

「……おかーさん、戦国時代にくわしいんだね」

「そりゃあ作家の妻ですもの」

 よくわからない理屈で煙に巻かれたとき、玄関のチャイムが鳴る。いつものようにぽんとわたしの頭に手を載せ、お母さんは笑顔で言う。

「さ、今日も元気にいってらっしゃい。お姫さま」


 あれから四年。

 今、わたしは違う名を名乗っている。


 初音ミク。


 この昭和55年に生きる、わたしの名だ。


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