第8話 第1章 ひなた―――2017
区役所を出、わたしは来た道を引き返した。
大通公園に戻ったときには時刻は二時半近くになっていた。
(ちょっと遅れちゃった)
テレビ塔の電光時計を見上げてつぶやいたときだった。わたしは塔の左の空になにか黒い群れが湧いていることに気がついた。続いてこだまするように無数の鳥の啼き声が上から響いてくる。
「……カモメ?」
ビルばかりの札幌の街のどこに潜んでいたのだろう。無数の鴎が、まるで
「へんなの」
横断歩道を渡り、家へと急ぐ。
この時間ならまだうちでは授業中だろう。ひょっとしたらお母さん方のお迎えで混雑する玄関から家にあがることになるかもしれない。わたしは足を速めた。
(塾が終わったらすぐにお部屋の片づけ終わらせて、時間があったら優希といっしょに出かけよう。それから―――……)
スクールバッグを揺らし、札幌ファクトリー煉瓦館の赤茶けた煉瓦の壁の前を通る。優希はもう小学校は終わったろうか。
民家にはやや大仰な門扉を潜ったとき、家の前にお迎えのお母さん方の姿はまだなかった。わたしはほっとした。数名の子がうちの広い庭先で遊んでおり、地面に落ちた
むらは風の動きにあわせてよそよそと揺れた。
「おねいちゃんだっ」
顔なじみの女の子の一人がわたしの姿に気づき、土まみれの小さな手をあげたときだった。
ひときわ強い風が吹き、門の手前に植わった
(ちがう……!)
わたしははっとした。
これ、風で揺れてるんじゃなくて―――……
そこまで考えたのはおぼえている。
ごおっ
突然地面が揺れ、大気が震えた。肩に提げたスクバがすべり落ちた。地の底から噴きあがってくるような地響きがあたりを包み、
その瞬間―――。
世界が、裂けた。
2017年。5月17日 午後2時38分。
北海道道央を中心に
立っていられぬほどの激震が大地を揺るがした。わたしはよろけ、悲鳴をあげた。榛の木が音を立てて裂け、折れた枝がわたしの腕を直撃した。わたしはもう一度悲鳴をあげた。が、そのどっちも声は喉の裏に張りついたみたいに出てこなかった。わたしは地面に突っ伏し、指の爪で黒土をかいた。
そして顔だけもたげて自分の家を見上げる。
家は無残なほどに揺れていた。
まるでいじめっ子に両肩を掴まれて揺さぶられているみたいに家は
トタン屋根が割れ、煙突は崩れ、軒が落ちた。地に吸いこまれるような衝動が湧き起こり、わたしは何度も奈落に沈み、浮かび、まるで手鞠のように撥ねあげられた。
(お母さん―――)
わたしははっとした。
お母さんは……
お母さんはどこ!?
不安に全身をかきむしられ、わたしは先刻の女の子が頭を抱えてしゃがみこんでいるところへ必死に這いよった。とそのとき、胸に小さい女の子を抱え、左手に男の子を引いた大人が玄関から飛び出してくるのが見えた。
お母さんだった。
「お母さん!」
お母さんはわたしに気づかなかった。子どもたちの無事しか頭にないのだろう。口を真一文字に結び、まろぶようにして二人の幼児を力任せに引きずると、庭先の子どもたちの元に走り寄る。お母さんがすごい形相でおちびちゃんたちをかき集め、そのまま敷地の外へ逃がそうとしたときだった。男の子の細い声が家の中から聞こえた。お母さんは振り返った。
「誠司くん……!?」
縁側に面した一階の和室に小さな男の子が一人残っている。誠司くんはサッシの落ちた座敷のへりに立ち尽くし、真っ白い顔でこっちを見つめている。
わたしがはっとしたときにはお母さんはすでに地面を蹴り、濡れ縁から中に飛びこもうとしていた。わたしはその背にむかって怒鳴った。
「おかあさんっ!!」
「―――!」
お母さんは一瞬、おどろいたようにわたしを見た。
いや、見たかどうか。
縁側を駆け上がったお母さんは素早く誠司くんを抱きこむときびすを返した。が、間にあわなかった。次の瞬間、屋敷はひしゃげるように潰れ、一階と二階の
わたしはお母さんが死ぬ瞬間の顔を見た。
「お母さん―――!!」
わたしは叫んだ。
かつて家だったものの残骸が視界をいっぱいに満たした。わたしは自分が泣いているのに気づいた。喉を震わせて迸ったわめき声は瓦礫が崩れ落ちる音にかき消された。そんなわたしの後頭部に折れた
そのときひときわ大きな揺れが地面を震わせた。土が波のように揺らぎ、傾ぎ、めくれ上がった敷石ごとわたしの身体を強く揺さぶった。
ついにわたしは気を失い―――、
そして、跳んだ。
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