第10話 第2章 ミク―――1980


 さわさわという草の音がした。

 虫が飛んでいる。

 風に揺れる草の葉にほおをくすぐられ、わたしは目を覚ました。目蓋をあげた拍子に目尻からひとしずく、涙が伝った。悲しみの余韻にさらわれるようにわたしは低く鼻をすすりあげた。

「ないちゃ、だめ」

 ふと幼く優しい声が耳を打った。

 その声にわたしは視線を動かした。見ると小さな女の子が一人、耳元に膝を寄せて座りこみ一心にわたしの顔をのぞきこんでいる。

 肉づきのいい小さな手の平がわたしのおでこに触れ、いたわるように撫でる。そのあたたかな感触にわたしははっと身じろぎし、身体を起こした。


(ここは……)


 そこは土手の斜面の中腹だった。

 目の前に見慣れた景色が広がっている。子どもの頃から朝に夕に見続けてきた、広く豊かな川の流れ。そのおだやかに流れ下る水面の上を風が渡り、土手下の川の際に生い茂ったふきの葉が騒ぎ立って光の粒のような日差しをちらちらとはじいている。

 豊平川だ。

 わたし、どうしてこんなところに―――と、涙のあともそのままにぼんやりとしていたときだった。

「こんなところで寝てたら風邪ひくぜ」

 頭上から声を投げかけられ、わたしは振り返った。

 その視線の先で、ポケットに両手を突っこんだ男の子が斜面の上手に佇み、わたしを見下ろしている。中学生だろうか。背の高い、髪の毛がふわふわした男の子だ。上着のボタンをすべてとめておらず、風が吹くたびに白いシャツの裾がはためいている。

 小さい女の子の連れなのだろう。男の子はさくさくと草を踏み分けて近づいてくると軽い調子で訊ねた。

「どうした? 自転車でずっこけでもしたのか?」

「おねいちゃん、なんで泣いてるの? おいたなの?」

 人懐っこい子なのか、その子は間近まで顔を寄せてくると柔らかい声で訊ねてくる。

「わ、わたし……」

 わたしをいたわろうとするその瑞々しい瞳にとまどいつつ、わたしはしきりにきょろきょろと首を巡らせた。何かが変だ。そんな気がしたのだ。こんな川のほとりでなぜひっくり返って眠っていたのかわからず、首をかしげる。

「…………」

 わたしは身のまわりをあらためた。鞄はない。ふと草の上に雪ミクのストラップの人形が切れて落ちているのを見つけて拾い上げる。スクバの持ち手に取りつけていたものだ。

 なんでこんなところに……と視線を落としたところで、泥と血が爪に食いこんだ自分の指先と埃まみれの制服に目が留まる。

 突然先ほどの記憶が甦り、わたしははっと身を起こした。

「地震は!? うちはどうなったの!?」

「地震? なんのことだ?」

 男の子はきょとんとした顔をした。が、わたしはろくに聞いてはいなかった。よろよろと立ち上がると両手をついて土手を這い上がる。

(お母さん)

 いても立ってもいられず、土手沿いの舗道をわたしは家にむかって駆け出した。が、数メートルも行かないうちに足首に激痛が走り、激しく転倒する。

 腰が萎え、自分の持ち物じゃないみたいに力が入らない。

「おい、だいじょうぶかよ」

 わたしはなおも歩こうとした。がそれ以上一歩も進めず、ぺたりと地面に尻餅をつく。横を見ると先ほどの男の子が女の子の手を引いて心配そうについてきている。

 わたしはあごを上げ、涙声で訊ねた。

「ねぇ、おかあさんは……?」

「お母さん? お母さんって、お前のかーちゃんか? はぐれでもしたのか」

「おかーさん……」

 わたしは再び身体を起こし立とうとした。そのまま四つん這いになる。その自分の姿勢が、つと先刻の庭先での出来事を脳裏に呼び起こした。わたしは下唇を噛んで俯いた。

 お母さん、もうたぶん生きてない。

 さっき押し潰された家の下敷きになったのをこの目で見た。誠司くんを助けようと家に飛びこんで戻ったとき、逃げるのが間にあわず二階の屋根ごと押し潰されてしまった。

 いまわの際の、お母さんの顔。

「……うう」

 一筋、涙がほおを伝う。

 ふいにありったけの悲しみが胸に押し寄せ、わたしは声をあげて泣き出した。

「ああーん。ああーん。お母さんが死んじゃったー! わーん。わーん。お母さんがいなくなっちゃったー!」

 道の真ん中で尻餅をついたまま子どもみたいに泣きじゃくるわたしに、道行く人たちが奇異のまなざしをむける。

 そんなわたしを持てあましたように男の子は困惑顔で佇み、ぽりぽりと髪を掻いていたが、やがてぎこちなく慰めにかかる。

「……ったく、しょうがねーな。ほれ。泣きやめよ。俺が家まで送ってやるから」

 言葉づかいは乱暴だが根は優しいのか、そう言って男の子はわたしの前にしゃがみこむ。わたしはその子の首に腕をまわした。わたしを背中におんぶし、男の子は舗道を歩き出した。

 女の子がとことこ後をついてくる。男の子の髪から乾いた干し草の匂いがした。

「……ううう、ひっく、ひっく」

 悲しみが突きあげるままに、わたしはしきりにしゃくりあげた。そして泣き顔のまま地震の爪痕を探そうとしきりにあたりを見渡す。が、見た感じそれらしき様子はない。路面が裂けたりひび割れたりもしていなければ、民家が崩れた様子もない。対岸に広がる街並みも、川べりの風が運んでくる澄んだ水の匂いもいつものままだ。

(おかしいな。このへん、うちの近くのはずなんだけど……)

 そもそもなんでこの子たちは地震のことを知らないんだろう。外にいて揺れに気づかなかったんだろうか。妙な違和感を感じつつ、ぐずぐす鼻をすすりあげながらなおもきょろきょろしていると、男の子が訊ねた。

「なあ、お前んちどこなんだ?」

「え、ええと―――」

 わたしが住所を言うと男の子は眉を上げた。

「なんだ。すぐ近くじゃないか。でも、そのわりには見かけねー制服だな」

「うう。で、でも、うちは地震で……」

「だから地震なんてねえって」

 少年は気安く言った。そしてわたしを背負い直すとふうふう言いながら横断歩道を渡る。

 のどかな日常。

 あたたかな日差しも、晴れ間の広がる高い空も、川むこうで遊ぶ子どもたちの歓声も、たった今この街で大地震があったことなどまるで感じさせない。

(あれは夢だったのかしら……?)

 プップー。

 突然背後でけたたましいクラクションが鳴り、わたしはびくっとした。見ると荷台にねずみ色のホロをかけたトラックがブロロン……と勢いよく車道をすぎていく。ここは田舎なのかな、とふとわたしは思った。走り去ったトラックがやけにおんぼろに思えたのだ。それにどことなく景色が草深く、古めかしい。

 はっきりこの街がおかしいと感じ始めたのは川べりの道を離れて表通りに出、街の中心部へ歩き出したときだ。目の前にどんどん知らない光景が広がり出す。この道は……国道12号線かしら? にしては道に見覚えがない。男の子の脚が辿っていく道すじは記憶にあるままなのに、でも目に映るながめは全然違う。知らない家、知らないマンション、知らない道角。歩いている人の格好もなんか変だし、そういえば街の匂いもなんか違う。車の排気ガスですごく煙い。

 なんだか気持ちが悪くなってきて、わたしは男の子のうなじに額を押しつけた。そして今何時なんだろうと考えたとき、ふとポケットにスマホがあることに気づく。わたしはスカートのポケットからiPhoneを取り出すと、あわただしくホーム画面を確認した。緊急地震速報が入っている。


緊急地震速報 石狩地方・胆振地方で地震発生。強い揺れに備えて下さい(気象庁)2:37


「やっぱり地震があったんだ……! 夢じゃなかったんだ!」

 わたしはスマホを手に叫んだ。

 やっぱり札幌を強い地震が襲ったのだ。地震発生時刻は2時37分。今の時間は―――3時26分。ということはあれは一時間近く前の出来事ということになる。

 その間わたしはなにをしていたのだろう? なんだってあんな河原に倒れていたのだろうと次々に疑問が湧く中、誰かから連絡が入っていないか食い入るようにスマホを確認する。が、不思議なことに2:37分の地震速報を最後に、LINEにもメールにもメッセージは一件も届いていない。着信履歴もない。おかしい。優希は? カーチャは? 他の友達は? どうして連絡がないんだろう? みんな無事じゃないのかな。

「おねいちゃん、ねぇ。なあに? それ、なあに?」

 次第に口腔こうこうにすっぱい唾がこみ上げてくる中、必死でスマホをいじるわたしのスカートの裾を引っぱり、女の子は首を伸ばしてのぞきこもうとする。わたしはかまわず何度もスワイプして画面を確認した。

 そしてつとステータスバーが圏外になっていることに気づき、愕然とする。

「圏外……?」

 スマホが圏外になっている。

 電波が、届いていない。心臓が早鐘を打つ。わたしはあらためてあたりの街並みを見渡した。そして目に映る震災の爪痕など欠片も見当たらないのどかな景色を見つめ、初めて心に思った。


 

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