第11話 第2章 ミク―――1980


「下ろして!」

 ふいにわたしは叫び、暴れた。そして身をもぎ離すようにして男の子の背から跳び降りると、家とおぼしき方角にむかって駆け出す。

 わたしの家。そうだ、この道だ。この道をまっすぐ行って、それから左に折れて……。いや待てよ。こんな看板、ここにあったかしら?

 奇妙な違和感にこづかれる中、脚の痛みも忘れてわたしは懸命に駆けた。道すじを辿るうち胸の焦りがどんどん強くなる。

 だが最後の角を曲がったとき、ならび立つ電柱のむこうに見慣れた煉瓦の門構えを見て安堵の溜息をもらす。あった! わたしんちだ! 錆だらけになった鉄製の門扉と敷地を囲う背の高い塀、門の麓にこんもり植わっている白とピンクの芝桜、すべて記憶にある通りだ。でもなにかおかしい……。煉瓦造りの門柱があの地震で少しも崩れずに持ちこたえているし、わたしの上に落っこちてきたはずの榛の木が倒れずに残っている。

 ぜいぜいと息を弾ませ、わたしは転がるように門を潜り―――、

 そしてぼうぜんとした。

 家が、潰れずに立っている。

(おまえんち、お化け屋敷やあい)

 わたしは声もなく立ち尽くした。目の先で、先刻の大地震で完全に倒壊したはずの我が家がそのままの形を留めている。明治の頃に建てられたという築百年の歴史を持つ古い木造家屋。当時としては斬新だった洋風建築を取り入れ、時の開拓使の官吏の住まいにもなったこともある豪奢なお屋敷。

 立てつけが悪く、いつもすきま風が寒かった家、Wi-Fiルーターを引くのも一苦労だった家、マンションに引っ越すのが楽しみだった家、そして先刻お母さんと誠司くんを丸ごとその瓦礫の中に呑みこんだはずのわたしの家が、微塵も揺るぐことなくどっしりと大地に根を生やしている。

「…………」

「ったく、いきなり走んなよ」

 息をきって男の子がようやく追いついてくる。

 それを無視してわたしは家の中に飛びこんだ。木製の扉を開けるなり、見慣れた玄関がわたしを出迎える。でも何かがちがう。廊下のランプシェードの形がちがうし、傘立ても下駄箱も三和土たたきに並んでいる靴もまったく見覚えがない。自分の家のはずなのに、まるで中身を入れ替えたみたいに他人の家の気配に満ちた玄関にひるみ、立ちすくんだときだった。

「なにか用かね?」

 ふいに声をかけられ、わたしはびくっとした。

 見るとグレーのカーディガンを着た小柄なおじさんが立っている。花壇の手入れでもしていたのか、如雨露じょうろを片手に玄関口に佇むわたしをいぶかしに見やる。

「はて。うちの生徒にしては少し大きいな。勉強したくて意気ごんできた……というわけでもなさそうじゃが。どなたかな」

「生徒……勉強……?」

 わたしはひび割れた声で問い返した。慣れ親しんだその言葉に、ふとこの家と自分に繋がりのようなものを感じたのだ。

 同時に、そのひょうげた物言いと悠揚とした態度に懐かしさをおぼえ、目の前に佇む口髭を生やしたおじさんをあらためてながめる。

 この人、むかしどこかで会ったような……。

 ここはわたしんちなのよ。ずっとずっと住んでたのよ。おじさんこそだれ?

 もう長いことしまっておいた記憶の箱の天板に触れたような感覚をおぼえつつ、口まで出かかった言葉を飲みこみわたしはおずおずと訊ねた。

「あ、あのう……この家、地震で潰れたはずじゃあ……」

「はっははは。確かに年季の入った家にはちがいないが潰すのは少し可哀想じゃな。もう少し保ってもらわんと住む家がなくなる。……はて、節子のお友達かな?」

 髭のおじさんは心底おかしそうに笑うと、おだやかに訊ねる。

 そこへ、とんとんという耳慣れた音とともに女の子が階段を降りてくる。

「だれ?」

 冷たい声にその子を見上げ……わたしは絶句した。

 目の前に息を呑むような美少女が立っている。

 高校生だろうか。セーラー服を着たその少女の圧倒的な美しさに、わたしは一瞬、胸に抱えた不安や疑問をすべてを忘れて見入った。

 長い艶やかな黒髪をまっすぐに垂らした綺麗な女の子だ。すらりと伸びた手脚と均整の取れた若鹿のような身体。だがなにより特徴的なのはその顔立ちだった。完璧な輪郭線によって描かれた顔立ちはその性格を示すように凜と引き締まり、その切れ長の瞳は様々な感情を湛えつつ夜空の星ように静かに瞬いている。

 そのへんの凡百の美女など一瞬でひれ伏させてしまうような圧倒的な本物感。化粧ひとつしていないこの美少女をわたしがぼうぜんと見上げていると、おじさんがその子にむかって言った。

「ああ、節子。お前の友達がきとるよ」

「節子……?」

(姉さん、むかしすごい美人だったのよ。男の人たちが夢中で取りあうくらいの)

 わたしは半歩よろけ、後ずさった。頭の奥を何かが閃光となってかすめていく。それはシグナルのようにある認識となって脳内で明滅を繰り返した。

 そんなわたしを階段からの踊り場から見下ろし、女の子は形のいい眉をひそめた。

「なんだ。知りあいじゃないのか?」

「知らない。誰あなた?」

 とそっけなく首を振ったところへ、今度はすらりと背の高い青年が二階の階段口から降りてきてその美少女にむかって声をかける。

「また下級生のファンだろう。だからあまり罪作りなことをするなと言っているのに。男どもならまだしも」

「やめてよ兄さん。そんなんじゃないんだったら」

「一粒の砂にも世界を、一輪の野の花にも天国を、一欠片の微笑にも永遠の愛を」

 芝居がかった口調でそう言うと青年は片目をつむってみせる。

「豊……おじさん……?」

 写真でしか知らない若々しい秀麗な顔。初めて聞く才気に満ちた闊達かったつな声。理解できない、いや、理解したくない現実が、まるで外堀を埋められるように次第にわたしのまわりを取り囲んでいく。

 その真綿を締めるような感覚に耐えかね、わたしが家の外に逃げだそうときびすを返したときだった。「ちわ」とさっきの学生服の男の子が女の子の手を引いて戸口先に現れる。

「ん、優坊か。おかえり。どうした?」

「おじさん、湿布ある? その子、怪我してんだ」

「優くん。誰なの、この子。キミのお友達?」

「いや、しらねえ子だけど、土手に倒れててさ。ここまでおぶってきたんだ。なんか親とはぐれたらしくて……」

 男の子の言葉を遮り、わたしは弾かれたように玄関を飛び出した。そしてひび割れたポーチを踏んで屋敷の玄関を覆う屋根の軒を出るや、その柱にかけられた木の表札を振り返る。

 表札には『久我くが』と記されていた。

「久我……」

 『御形』ではなくお母さんの旧姓が記された表札を目にし、頭を殴られたようにわたしはよろけた。そしてもう一度その場にいる全員に目をむける。どの顔にも一様に困惑の色が浮かび、突然家に上がりこんできた闖入者であるわたしを、まるで頭のおかしい人間を見るみたいな目で見つめている。

「おい、ホントにだいじょぶか? お前、すげえ顔色が悪いぞ」

「わ、わたし……わたし……」

 どもりながら声を絞り出したとき。

「なんだい、家の前で騒々しい」

 ふいに玄関の外で聞き慣れた声が耳に響いた。

 ぶっきらぼうなようでいて、深く、低く、川底で洗われる石のように丸みを帯びた優しい声。あたたかさの中にもどこか往年のたくましさを感じさせる、大好きな声。土手で目覚めて以来、初めて耳に届いたなじみ深い家族の声にわたしは振り返り……その声の主を見た。

「―――ん?」

 わたしの姿を認め、怪訝そうに細まる目。

 その限りなく懐かしい顔に徐々に不審な色が浮かんでいくのを、わたしはうづくような胸の痛みと共に見つめた。


「おばあ……ちゃん」


 買い物袋を提げたおばあちゃんが、そこに立っていた。

 若々しい、顔に皺のほとんどないおばあちゃん。軽くパーマのかかった黒々とした髪は豊かに波打ち、あごの線はたるむことなく引き締まり、背筋はぴんと伸びている。そのがっしりとした二の腕は塩ビの買い物袋を軽々と下げ、サンダルを履いた脚は力強く大地を踏みしめている。

「―――……」

 背を丸め、いつも俯いて新聞を読み、施設の一室でくすぶっている現在のおばあちゃんとは似ても似つかぬ、若く、屈強なその姿にわたしは唇を噛んだ。壮年期にさしかかったばかりのおばあちゃんのそのまなざしが、一瞬、誰何すいかとは異なる色を帯びてわたしの上で焦点を結んだときだった。

「おかあさーん」

 わたしに始終まとわりついていたあの女の子が両手を広げ、おばあちゃんの腰にいきおいよく抱きつくと、まわらぬ舌で言う。

「おかえりなさいおかあさん」

「はいよ。ただいま、とっこ」

「とっこ……透子」

 わたしはつぶやいた。そして悟る。

 おばあちゃんを「おかあさん」と呼ぶこの目のくりくりした女の子が、いったい誰かと言うことを。

(お母さん)

 口を押さえ、わたしは一歩後ずさった。一歩、また一歩。

 視線をさまよわせたとき、ふと下駄箱の上に貼ってあった『及川商店』と印刷されたカレンダーの日付に目が留まる。4月8日火曜日。年号は―――【1980


 1980年。


 そこまでがわたしの限界だった。

 ふいに喉元から熱い胃液がこみ上げ、わたしはその場で激しく嘔吐おうとした。

 そのまま崩れるように倒れ、わたしは再び気を失った。


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