第12話 第2章 ミク―――1980


 Oh, come on up, Nils 旅に出かけよう

 準備なんか いらない

 春を探しに 空を行けば

 初めて見るものばかり


 Oh,Nils!

 その耳を すましてごらん

 動物たちの ささやき声に


Oh,Nils!

 その瞳 こらしてごらん

 朝日が昇る あの地平線を……



「ん……」

 懐かしい感覚に全身を包まれ、わたしは目を覚ました。

 身体を覆う白いシーツと布団、頭の下には水枕の感触がある。子どもの頃、高熱を出して寝こんだときに感じたときの気分―――気だるくもどこか優しいぬくもりが心身を包むあの感覚を噛みしめながら隣の部屋からもれ聞こえてくるテレビの音に耳を傾けたときだった。

「やれやれ。気がついたかい?」

「うん……」

 おばあちゃんの声にわたしは生返事をし、深く息をついた。それから自分の体温を再び味わうようにころんと寝返りを打ったところでどうしておばあちゃんが施設じゃなく家にいるのだろうと思い、ついでなぜ家がまだ無事に残っているのだろうと不思議に思う。

 次の瞬間、わたしははじかれたように跳ね起きた。


 おばあちゃんが布団を敷いた足下の畳に座っている。


 皺のない、背筋の伸びた、若々しい肌をしたおばあちゃんだ。

「お、おばあちゃん……っ!」

「おばあちゃん?」

 おばあちゃんは一瞬渋面をこさえた。それから「父さん、起きたみたいだよ」と居間の方に声をかける。さっき会った小柄な髭のおじさんが襖を開けて入ってくると、膝を崩しあぐらをかいて言った。

「どれ。大丈夫かい? 気分は?」

「…………」

 わたしはシーツを胸元に引き寄せ、ぼうぜんとあたりを見渡した。

 そこは一階の和室だった。

 忙しい合間を縫ってお母さんがリフォームしようと長年画策していた教室の隣の奥座敷。誰かが使っているのか部屋の隅にとうの行李が積み重ねられ、クリーム色のファンシーケースが置かれている。

 わたしは制服姿のままだった。起きた拍子に額から落ちた濡れたおしぼりが手元に転がっている。

「こ、ここは……」

「わしらのうちだよ。あんたはうちの玄関で倒れたんだ。おぼえているかい?」

「―――うち」

 徐々に記憶が戻ってくる中、わたしは低くつぶやいた。蛍光灯の明かりの下、片づいてはいるがどこか生活臭を漂わせた見慣れた間取りがぼんやりと広がっている。

 地震の痕跡など欠片もないその光景をながめるうち、ある実感がさざ波のように胸に押し寄せ、その飛沫はわたしの心の根を絶え間なく濡らした。目の前の情景は雄弁にただひとつの事実だけを突きつけていた。

 今はむかしなんだ。

 夢なんかじゃない。どういうわけかわからないけれど、あの大地震……あの震災が起こった拍子にわたしはタイムスリップし、むかしの世界に来てしまったんだ!

 昔。大昔。すごいむかし。わたしが生まれる前―――それどころかお母さんやおばさんがまだ子どもだった頃の時代の日本にわたしはたった一人、跳んできてしまったんだ。

 そんなことが……。

 若き日の久我家の面々―――若いおばあちゃんとおじいちゃん(もちろん、この人はおじいちゃんだろう)、そして様子を見にきた女子高生の節子おばさんと青年のおじさんが見守る中、わたしは唇を噛みしめた。

「…………」

 放心したように布団の一点を見つめ、じっと動かないでいるわたしを前に二人はやや困ったように顔を見あわせていたが、やがておじいちゃんが口を開いた。

「それで、あんたはどこから来たんだい? おうちは?」

 わたしはわずかに目蓋を上げた。

「なんでもお母さんとはぐれたそうだが、なにかあったのかい? 怪我もしているようだが」

「…………」

「なにか事故にでも巻きこまれたのかい? だれか連絡する人はいないのかね? おうちの電話番号は? よかったらわしらに話してごらん」

「わ、わたし……」

「うん。なんだい。いってごらん」

「…………」

 わたしは唇をわななかせ、力なく俯いた。言えるはずない。地震と共に天地が裂け、気がついたら過去かこにいたなんて。いったい誰が信じるだろう。家が瓦礫に変わる様を目にした次の瞬間、まるでいらない子みたいに川べりの土手に放り出されていたなんていうこっけいな与太話を。

 再び貝のように押し黙ってしまったわたしに隣のおばあちゃんが溜息をついた。

「困ったねえ。いったい、どこの子だろう」

「優ちゃんはお母さんが亡くなった、って泣いてたって言ってたけど」

「家出してきたのかねえ。ずいぶん服が汚れてるし」

「ねえ、やっぱり警察に連絡した方が……」

 それを聞いた瞬間、わたしははっと面を上げて言った。

「そ、それはだめ!」

「どうしてかね?」

「だ、だって……だって―――」

 わたしは絶句した。

 だって警察に連絡したってわたしのことを知ってる人なんかいないんだもの。この世界にわたしの知りあいなんて一人もいないんだもの。おうちなんてないし、心配して電話を取ってくれる人はもういないんだもの。

 わたしはひとりぽっちだ。

 もうずっとひとりぼっちなんだ。

 お母さんが死んじゃっただけじゃない。わたしは優希やみんながいるあの世界からすらも永遠に切り離されてしまったんだ。

「う……」

 涙が溢れた。

 わたしは布団に倒れこむと手の甲で顔を覆って泣き出した。

 今度の涙は本物だった。これまで目を背けていた現実を胸元に突きつけられ、わたしは声が潰れるほど泣いた。

 おばあちゃんはあわててなだめるように言った。

「いいよ。泣くのはおよし。べつにあんたを警察に突き出そうと考えているわけではないんだから」

 その後の記憶は少し飛んでいる。わたしは泣いたあと、寝床で少し吐いたらしい。洗面器が運ばれ、何度か顔や口元をぬぐわれた。やがて薬を飲まされようやく落ち着いたわたしは少し眠ったのだろう。気がつくと同じ部屋にひとり寝かされていた。

 明かりは消され、蛍光灯の小さな豆電球が部屋の輪郭を薄い黄色に浮かび上がらせている。あたりには誰もいない。

「…………」

 その裸の薄明かりを布団の中から見上げつつ、わたしは濁った頭で自分の身に起こった出来事について思いを巡らせた。切れ切れであいまいな記憶をパッチワークのようにつなぎあわせ、懸命に意識を結ぶ。

 あの大地震がなにか不思議なことを引き起こしたのはまちがいない。だがこれを“タイムスリップ”という手垢にまみれた言葉に置き換えるのはなんだか違っているような気がした。その言葉は、今この肌身で体感している生々しい現実を表現するにはあまりに空疎で、不適当で似つかわしくないもののように思えたのだ。

 ひょっとしてわたしはもうとっくにあの震災で死んでしまっていて、たんに幽霊が夢を見ているだけなのかも。ふとそんな考えが脳裏をかすめ、わたしは一時その想像を追った。が、すぐにやっぱりそんなことはあり得ないと否定する。なぜならわたしは怪我をしているし、吐いたり寝こんだりしているから。湿布をしたり、薬を飲んだりする幽霊なんて聞いたことないもの。ということはやっぱりわたしは生きているんだろう。

 このおおむかしに建てられた、見慣れたお家の中で。

 なにやら一人で初めて親戚の家に泊まったときのような気分の中、押し入れの前に置かれた古い扇風機をながめながらわたしは長いことじっとしていた。

 優希は―――無事でいるかしら。

 ふと弟のことを思い出し、わたしはあっちの世界に意識をむけた。

 地震が起きたとき、優希はどこにいたのだろう? まだ学校だろうか。学校の校舎なら安全だと思う。鉄骨の筋交い入れたって聞いたし。

 おばあちゃんは……施設の部屋かしら。怪我なんてしてないかなあ。

 お母さん……。

 やっぱり死んじゃったのかな。

 また悲しみがこみ上げ、低くすすり泣いたとき、開いた襖のむこうで音がした。わたしがわずかに首をもたげた瞬間、小さな足音がぱたぱたと遠ざかっていく。疑問に思ったものの、それ以上意識を保つ体力はもうなかった。


 睡魔に負け、わたしは眠りに落ちた。



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