第13話 第2章 ミク―――1980


 わたしは丸一日眠り続けた。

 あとで聞いたところでは寝ながら時折うわごとを言ったり、泣いたりしておばあちゃんたちにずいぶん気を揉ませたらしい。だが育ち盛りのわたしの身体はいつまでもうちひしがれたままにはなっていなかった。

 翌朝。

 耳元で鳴る騒々しい音でわたしは目を覚ました。

 それが隣室から聞こえてくる掃除機の音だと気づき、ぼんやりと身を起こす。おばさんやおじさんはとうに学校へ行ったのか、姿は見えなかった。やがておばあちゃんが掃除機片手にせわしなく入ってきて、起きているわたしを認めて言った。

「ああ。起こしてしまったかい? すまなかったね。もうじき生徒が来ちゃうんでね、教室の準備をしてたんだよ。今日は父さんが大学で、だれもいないものでね」

「生徒……」

 なにやら身におぼえのあるシチュエーションだ、と開け放たれた障子からもれ射す日の光とあわただしい朝の雰囲気を夢うつつに噛みしめていると、おばあちゃんはずいと膝を進めてわたしをながめて言った。

「ふむ。顔色はだいぶいいようだ。昨日まではお化けみたいな顔をしてたけどね。いまべつの部屋にお床を敷いてあげよう」

「い、いえ、起きます」

 わたしはよろよろと起きあがり、布団をたたんだ。身体の芯はまだふらふらしたが、自分が回復してきているのはわかった。そんなわたしを、おばあちゃんは奇妙なまなざしで見つめた。

 そこへ土手で会った小さな女の子が短い手脚を振り回しながらぱたぱたと駆けこんでくる。白い丸首のセーターに青いズボンを身につけたおかっぱ頭の女の子。右膝にチューリップのアップリケがつけている。

 お母さんだった。

 まだ小さい小さい、子どもの、おちびちゃんのおかあさん。

「これからうちじゅくなんだよ。とっこ、いっしょにおべんきょうするんだよ」

 屈託なくそう言うと、女の子はうれしいのか部屋の真ん中で小躍りを始める。

 わたしはその子を食い入るように見つめた。ぷくっとしたほっぺの、おてんばそうな女の子。明るく活発そうな女の子。その瞳にかげりはなにひとつ見当たらない。

「透子、あっちへ行っておいで」

 つとおばあちゃんが低く言った。



 そのうち、玄関にお母さんに手を引かれた子どもたちが入れ替わり立ち替わりやってきて、たちまち家の中は子どもの姿でいっぱいになった。

(―――そうか。おばあちゃんも昔、子どもたちの塾を……)

 近所に住む、入学前の子たちなのだろう。ごくふつうの家庭の、見るからにやんちゃそうな子どもたちが一ダース半ばかり、一階の教室に揃うやあてがわれた机と椅子にちょこんと腰を下ろし、口々に教科書の音読を始める様をわたしは部屋の隅っこからぼんやりとながめた。

「もっとおおきな声で読む。お日様をのみこむくらいのきもちで、おーきくおーきく口を開けないとじょうずに本は読めないよ」

「はあい」

(なんか寺子屋みたいだ)

 時空を超え、かりそめの現し身として過去を覗き見しているような気分の中、わたしは若いおばあちゃんが子どもたちを指導する様子をながめた。かつてのお母さんが今のおばあちゃんの姿に重なり、かつてのわたしが今の幼いお母さんに重なる。それは不思議な光景だった。役柄をそっくり取り替えたみたいに、おちびのお母さんが同年代の子どもたちの中に混じり、自分の顔より大きな教科書を両手で広げ、うんうんたどたどしく本を読んでいる。

(ついちょっと前まで、塾に行く代わりにわたしもこうしてたっけ―――)

「うちは教育費がかからないで助かるわー」と平気でうそぶいていたお母さんの言葉を思い出しつつ、わたしは半ば放心状態でこのどこかなじみ深い光景を観察した。

 が、しばらくするとそんなわたしもこのお教室がかなりの人手不足であること気がつかざるを得なかった。おばあちゃんは子どもたちの間を駆けずりまわっているが、いかんせん手のかかる年少、年中の子の数が多く、授業からあぶれている子どもの割合はうちの塾のピーク時よりもさらにひどい。

 見かねたわたしは立ち上がると、幼児の間に座るおばあちゃんにむかって言った。

「あのう、わたし手伝います」

「えっ」

 わたしの申し出におどろいたようにおばあちゃんはまばたきした。

 そして苦笑いをして言う。

「いいよ。ゆっくり休んでおいで。だいいち、まだ動ける身体じゃないだろう」

「いいえ。わたし慣れてるんです。こういうの」

「慣れてる?」

 おばあちゃんは変な顔をしていたが、とりあえずわたしを部屋に招き入れると子どもたちの間に座らせてくれた。たちまち数人の子どもがまじまじとわたしを見つめる。緑色に白いラインの入った野暮ったいジャージ。『無敵ロボ トライダーG7』のトレーナー。ほっぺの赤い、目をきらきら輝かせた子どもたち。

「ねーちゃんだれ?」

「なんであごから血ぃ出てんの」

 わたしはぐっと心の中で臨戦態勢を取った。ここでひるむな。

 わたしは手近にいたいがぐり頭の男の子を見下ろして言った。

「あんたこそだれよ。歳は?」

 男の子は黙った。わたしはふんぞり返っていばって言った。

「ねーちゃんはせんせいだよ! せんせいとなかよしになりたかったら言うこと聞きな。お勉強うんとがんばったら、あとでおねえちゃんが楽しいことしてあそんでやるから」

「なになに?」

「なにしてあそぶの?」

「すごいたのしいことだよ。だけど今はひみつ」

「えー。けちー」

「けちじゃない。お姉ちゃんの言うことはホントだよ。さあ、このさんすうプリントの時間はかるよ。右手にえんぴつを用意。だれがいちばん早くできるか、きょうそうだよ」

 ふとお母さんと目があう。わたしと視線があうなり、小さいお母さんはぷにぷにしたほっぺをにっこりさせた。そして自分が一番になろうと丸々とした指を折り折り、うんうん言いながら算数のプリントにむきあう。

 わたしは無我夢中でがんばった。

 なんでこんなことをしているのか、こんなことをして何になるのか、自分でもいっこうにわからぬままに必死に子どもたちにむきあう。習慣っておそろしい。いつの間にか胸の不安や悲しみはどこかに吹き飛び、わたしは必死にふだんどおりの「ねーちゃんせんせい」を務めていた。まだいくぶんのぎこちなさは残っていたけれど。

 午後になるといよいよ子どもたちの数は増え、部屋に入りきらないくらいになった。わたしはしきりに袖を引っぱられながら、懸命に子どもたちの間で立ち働いた。

「せんせい、ここわかんない」

「あのねせんせい。けんちゃんがね、さっきからね、わたしのことをね、あのね、ぶつの」

「おねえちゃん、ぼくおしっこ」

「はいはい。ちょっとまってな。いまねえちゃんがつれていってやるから」

 おばあちゃんははじめそんなわたしを目を丸くしてながめていたが、これは任せても大丈夫だと思ったのだろう。次々にわたしに生徒を預け、四時過ぎ、背広姿のおじいちゃが「ただいま」と戻ってきたときにはわたしはおんぶ紐で赤ちゃんを一人背に背負い、三人の子に囲まれて庭先で遊んでいる最中だった。

「これは、いったいどうしたわけだ?」

 わんぱく相撲大会に参加した関取みたいに子どもたちに腰にしがみつかれて格闘しているわたしをながめ、おじいちゃんは言った。

「今日はちょっと生徒が多くてね」

 おばあちゃんは肩をすくめた。





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