第14話 第2章 ミク―――1980


 やがて陽が傾いて暗くなる頃、子どもたちは全員帰っていった。

 おばあちゃんは教室の後片づけを終え「やれやれ」と肩を叩くと、わたしにむきなおって言った。

「今日はご苦労さんだったねえ。あんたがいてくれたおかげでほんとうに助かったよ。でも……どうしてそんなに子ども扱いがうまいんだい? まるで本物の先生だ」

「え、えーと、それは、そのう……うちにも子どもがたくさんいて……」

 幼いお母さんの手を引きつつ、わたしはあいまいに言葉を濁して言った。小さい透子ちゃんはすっかりわたしが気に入ったのか、授業中から片時も側を離れず、わたしの腰にまとわりついている。

 わたしの言葉におばあちゃんはすっかり感心したようにうなずいた。

「なるほどねえ。ご兄弟が多いから子どもの扱いにも長けていたんだね。それにしてもずいぶん助かったよ。ええと……」

 そこまで言っておばあちゃん大笑いをした。

「いやだよ。忙しさにかまけてあんたの名前を聞くのをすっかり忘れていた。お名前はなんて言うんだい?」

「わ、わたし―――ひ……」

 ひなたって言います、と名乗ろうとしたところでわたしははっと口ごもった。

 これって本名を言ってしまっていいのだろうか。うっかり名乗ったことでその後の歴史が変わったりすることにならないかしら。

「ひ……は―――は、は、初音ミクですっ」

 わたしはとっさに頭に浮かんだミクちゃんの名を名乗った。

 おばあちゃんは首をひねった。

「はつね、みく? 変わった名前だねえ。ずいぶんモダンな名だ」

「……ははは」

 わたしは笑ってごまかした。

 と、そのときだった。突然目がくらむような衝動が全身を駆け抜け、わたしはよろけた。そして、がっくりと膝をついてその場にうずくまる。おばあちゃんがあわてて駆け寄る。

「ちょっとお父さん―――!」

「どうしたんだね!? 具合でも悪いかい? すぐ床を敷くかい?」

 抱え起こそうとするおじいちゃんの肩を借りつつ、わたしは薄目を開けると蚊の鳴くような声で言った。

「お、お腹すいた……」

「へっ」

 ふたりは一瞬きょとんとした。それから弾けるように笑った。




 その日の晩。

 皆が寝静まった深夜、布団の上に大あぐらをかいたわたしは自分の置かれているこの状況について腕組みをして真剣に考えた。

 どうやらわたしは本当に過去へタイムスリップしてしまったらしい。

 あの大地震が起こった瞬間―――正確には2017年の5月17日午後2時38分。

 あのときわたしの身になにが起こったのかはわからないけれど、とりあえずわたしは(信じがたいことに)37年前の札幌にふっ飛ばされてしまったらしい。そこでは亡くなったはずのおじいちゃんがまだ生きており、若き日のおばあちゃんが、節子おばさんや豊おじさん、そして小さいお母さんといっしょに暮らしている。

 お家の中は未来と同じく子どもたちの姿で溢れており、かつてのお母さん同様、先生役のおばあちゃんが大汗をかきながら生徒たちに勉強を教えている……。そのどこか懐かしくも賑やかな日常の光景は、すべてを失い悲しみにうちひしがれていたわたしを否応なく正気づかせてくれたけれど、同時にわたしはあることに気づかざるを得なくなった。

 ここがどこであれ、わたしの今の居場所はここしかない。

 この1980年(まだ完璧に信じたわけじゃないけど、カレンダーや新聞の日付を見る限り信じるしかない)の世界、右も左もわからないこの状況でここを離れたらわたしはこの時代に居場所はない。

 帰る方法があるのか、再び2017年のあの日にタイムスリップして戻ることができるのかはわからないけれど、37年の前の世界で天涯孤独の身となった今、むかしの親戚がいるこの慣れ親しんだ家を、彼らと離れてどこかへ行くことは考えづらかった。たとえおばあちゃんやおじいちゃんがわたしのことをまったく知らないにしても、この人たちの側にいるということはそれだけで理屈を超えた安心感があった。

 とりあえずはとうぶんここにいさせてもらって、それから未来へ戻る手立てを考えよう―――。

 そう決意したわたしは、早速ふたりに頼むことにした。

「ここにいたいっていうのかね?」

 あくるの日の夜、しばらくここにいさせてほしいと頼んだわたしに対し、おじいちゃんはいくぶんおどろいたようだった。

「はい」

「それはかまわないが……しかし、なあ」

 片づけを終えた教室の椅子に腰を下ろし、おじいちゃんとおばあちゃんはちょっと困ったように顔を見あわせた。

 無理もない。

 人ひとりを預かるともなれば様々な問題も出てくるのだろう。私塾とは言え、この教室も教育機関のはしくれである。万一何かあったりすれば大きな責任問題になりかねない。

 もっともその点を留意してわたしは多少の嘘をでっちあげることにした。

 わたしは外国から戻ってきたばかりの帰国子女で、空港から札幌に到着した直後、お母さんとあの川べりではぐれてしまったという偽りのストーリーをこしらえたのだ。お母さんとはあとで必ず迎えにくるからと約束したことにし、パスポートや身分証明書はすべて預けていたため持っておらず、住むところもこれから訪れるつもりだったため、連絡先もまだないことにする。

 少しでもここに置いてもらえる可能性を高めるためについた嘘だったけれど、わたしの物事に疎い感じや、1980年の子らしからぬこの制服や髪型は帰国子女だという説明にいくばくかの信憑性を与えたらしい。とりあえずふたりは信じたようだった。

「だからどうしてもここにいたいんです。お願いします」

 わたしは必死に頭を下げた。ここを追い出されたら行くところがない。

「しかしだねえ―――」

 わたしのいきおいにいくぶん気圧されたようにおじいちゃんが困惑顔でその白い口髭を曲げたときだった。傍らにいたおばあちゃんが静かに口を開いた。

「それで、もし仮にあんたを置いたとして……ええと、ミクさんだったかい、あんたにはどんなことができるんだい?」

「どんな―――?」

「そうとも。働かざる者食うべからずだよ。仮にあんたをここに置いたとして、あんたにはいったい何がつとまるんだい?」

「そ、それは……」

「ちょっと、お前―――」

 思わず言葉を失ったわたしを気の毒に思ったのだろう。遮ろうとするおじいちゃんに対し、おばあちゃんはわずかにほつれた鬢をひと撫ですると、ゆっくりと言葉を続けた。

「あたしは人を見る目はあるつもりでね。あんたはしっかりした娘さんだと思うし、正直、どういうわけかあんたを見てると他人のような気がしないんだよ。だからわたしらもあんたの素性を問おうとは思わないし、できるならお母さんと会えるまでここに置いてやりたいと思うよ。ここまでわかるかい?」

 上目遣いになって話を聞くわたしにむかって、おばあちゃんはわたしのよく知るあの独特の口調で言った。優しいときは優しいけれど、厳しいときは冬の霜のように厳しい、あのずけりとしたふしぎな語り口。わたしはうなずいた。

「―――はい」

「でもね。そのためにはあんたは自分がしっかりした人間だとあたしらに証明しなければならないし、じゅうぶん納得させなければならないんだよ。それが人の世ってもんだ。そうでなければわたしもお父さんも安心してあんたを親御さんからお預かりすることもお返しすることもできないからね。そのために、ミクさんとやら、あんたは自分にいったいなにができると思うかね?」

「わ、わたし……わたしは―――」

 わたしはつまった。



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