第15話 第2章 ミク―――1980


 翌日。

「よしよし。いーこいーこ」

 わたしは朝から教室の隣の和室で左右両脇に三人の乳飲み子を抱え、子守に大わらわになっていた。涼しげな麻のシャツを着たおじいちゃんは縁側からその様子をながめ、口髭をほころばせて言った。

「いやぁ、まったくたいしたもんだ。これなら小さい子も安心して任せられる」

「しかしなんだってあんたはそんなに子ども扱いに長けているんだい? まるっきり子育て経験者だ」

 わたしの腕に抱えられたとたん、それまで金切り声を上げて泣いていた赤ちゃんがぴたりと大人しくなったのを見て、おばあちゃんが感心したように言う。

「いったい誰から教わったんだい?」

「え、ええと、母です」

「いいお母さんだ」

「…………」

 わたしは一瞬、涙がこぼれそうになった。そしてしみじみ思う。なるほど。板前と同じだ。人間、技術さえあれば世の中を渡っていくことができる。

 お母さんは、最後にわたしに包丁を一本持たせてくれた。

 そこへ小さな透子ちゃんがおかっぱ頭を揺らしながらとことこ走り寄ってきて、指でわたしの袖を取って訊ねる。

「ねえ、みくおねいちゃん、ずっとうちにいるの?」

「う、うん」

「ずうっと?」

「うん。ずっといるよ」

「わあ」

(お母さん)

 家族が増えてうれしいのか、膝の上にぴょんと載ってきたその甘酸っぱいぬくもりとあたたかくく柔らかな感触をわたしは思わずぎゅっと抱きしめた。そして心に思う。

 この子が大きくなって、成長し、いつかわたしのお母さんになる。そして優希を産み、二人の子を育て、おばあちゃんと同じく小さな子どもたちを教える先生となり、そしてあの地震が起きた日、生徒の一人を助けようとして―――。

「…………っ」

 そこまで考えたところでわたしは決然と面を上げた。そして、その小さなぬくもりを腕に抱いたまま強く心に誓う。

 未来を変えてやる。

 あの未来を変えてみせる。

 今はまだどうしたらいいか思いつかないけれど―――

 絶対に、この子を死なせはしない。





 その夜。

 ナショナルの蛍光灯の明かりの下、わたしは敷き布団の上に自分の所持品を並べてみた。未来から持ってきたものになにがあるのか、もう一度確認してみようと思ったのだ。

 わたしがあの土手で目を覚ましたとき、身につけていたものはこれだけだ。


・スマホ

・札幌市作成のハザードマップ(平成29年度版)

・初音ミク(雪ミクちゃんVer.)のストラップの人形


「うーむ」

 わたしはこの頼りない全財産を前に腕を組んだ。

 スマホとハザードマップはポケットに入っていたもので、ミクちゃんのストラップはたぶんスクールバッグにつけていたのが千切れたのだろう。土手の草むらに落ちていたものだ。

 スマホは残りのバッテリー容量が55パーセント。

 画面の照度を限界まで落として省エネモードにし、バックグラウンドで動いているものをすべて停止させたとしても、それでもたぶんあと数日も保たない。現状、自分と未来を繋ぐ唯一のものだけにこれはけっこうな恐怖だった。機能としては電話もSNSも使えず、ネットにも繋げない一方、写真画像は見られるし、カメラ機能も使える。

 スマホの日付は2017年5月21日。

 この時計は一度も停止していないはずだから、ということはあの地震から―――つまりわたしがこっちにタイムスリップしてから、今日で丸四日が経過したということになる。これはあとできちんとどこかに書きつけておかねばならない。いずれスマホのバッテリーが切れたあとでもタイムスリップから何日経ったかちゃんとわかるように。

 節子おばさんからもらったハザードマップについては、正直あまり役に立ちそうになかった。でも、これを見ると涙がこぼれた。だって、この地図は生前のお母さんに頼まれたおつかいだったから。きっとお母さんは有事の際の子どもたちの避難先を調べるためにこのハザードマップをほしがっていたのだろう。

 わたしは涙をぬぐうと、これを大事に折りたたんでしまっておくことにした。

 そして、これからどうするか考える。

 お母さんを助ける―――このことがわたしの最大の目標となったことはまちがいない。未来で起こるあの地震……2017年5月17日、札幌地方で発生するあの大地震で逃げ遅れた誠司くんを助けてようとしてこの家に駆け戻り、倒壊に巻きこまれてしまったお母さんを助ける。(そしてきっとそれは誠司くんの命も同時に助けることになるはずだ。)

 そして再びあの世界、未来に戻る。

 そんなことが果たして本当にできるのかどうかはわからない。でもひとつ言えることは、もしそれができなければ、わたしはもう二度とお母さんには会えないということだ。お母さんの時間はあの2017年で止まってしまい、わたしと優希は両親を亡くした孤児として今後生きていくことになるだろう。優希は10歳だ。まだ十年しか生きていないのに、お父さんもお母さんも亡くしてしまうなんて可哀想すぎる。なによりわたしにはまだお母さんと話したいことが山ほどあった。言いたいことも、訴えたいことも、伝えたいことも。

 だからお母さんを助ける。絶対にその死を阻止してやる。どんなことがあっても、どんな手を使っても、たとえ悪魔と取引してでも。

 いわゆるこの状況が本当に世間一般で言うタイムスリップなのか、正直わたしにはあまり興味がなかった。まだこの世界に来て日が浅いせいか、「すいません、それどころじゃないんですけど」というのが本当のところで、めずらしったりありがたがったりする余裕はとてもなかった。どうやら当事者にとってあらゆる物事というのはそういうものらしい。

 とはいえ、では具体的にどうするか……お母さんを救い、未来に戻るために何をすれればいいのかとなると、わたしには皆目見当がつかないのだった。なにせ相手は天災なのだから止めることはできないし、とすればこちらが逃げるしかない。

 でも、現実問題としてそんなことができるのかしら?

 幸い、地震が起きる日は正確にわかっている。だがそれは今から37年後の出来事なのだ。そんな遠い先の未来のことをいったいどうやって告げればいいのだろう。第一、告げたとして何を根拠に信じてもらえる? 「や、未来から来た孫です」と正体を明かすのか? 狂人扱いされるか、よくて嘘つきな女の子だと思われるのがおちだ。駄目だ。。でも、じゃあ、それって具体的にはどうすればいいのだろう―――?

「……ううむ」

 悩みが最初に戻り、わたしは腕組みしたまま天井を仰いだ。

 見慣れた和室の一間。はるか後年、震災に耐えきれず崩れてしまうこの梁も、今のところはがんばってここに暮らすわたしたち家族を安寧を支えている。

 まあ今日のところはいいや。そのうちいい方法が見つかるだろう。

 生来の楽天家ぶりがちょっぴり甦ってきて、わたしはあくびをもらすと大きく伸びをした。そして貸してもらった浴衣に着替えて休もうと立ち上がる。とそのときだった。

「ん?」

 光るものがスカートのポケットからこぼれたのに気づき、わたしは腰をかがめた。見ると白い小さな貝殻が布団の上に落ちている。その内側には金箔が貼られ、平安風の美しい蒔絵まきえが描かれている。

「これ、お父さんの部屋で見つけた……!」

 懐かしい再会にわたしは思わず声をあげた。地震の日の朝、書斎の本棚の間に挟まっていたあの貝殻が、今手の平の上にある。あのとき制服のポケットに放りこんでおいたのをすっかり忘れていたのだ。

「…………」

 思えばこの貝殻はわたしにくっついてはるばるこの過去の時代にまでやってきたのだった。たった数日前の出来事なのに、あれからもう何年もたったような気がして思わずしみじみと手の平に載った貝殻をながめていたときだった。ふと稲妻に打たれたようにある考えが脳裏をよぎり、わたしは面を上げた。

「―――そうか」

 わたしは低くつぶやいた。そして、その事実を全身で噛みしめる。



「この時代……お父さんは生きてるんだ」






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