第91話 終章
「おねーちゃん、プルークボーゲンってできる? ゆな、もうできるようになったよ。おとつい、賞状もらったの」
「ほう。そいつはすごいねえ」
「こんどパラレルターンに進むんだよ。足ね、もう八の字にしないの。前にね、おにいちゃんがゆなはまるでブルドーザーみたいだって」
「ふふ。雪をかき分けるから?」
「きょう、さむいねえ。きょう、おにごっこする?」
「いいよ」
いつもの日曜日。
手を握って離さない女の子の言葉にうなずきつつ、わたしは公園の地面を踏みしめた。たとえ雪があがってもそれは一時的なことなのだろう。大地は鉄のように冷え固まり、補助輪つきの自転車のタイヤの轍がくっきりと残っている。
「ほれ、遊んどいで。怪我するんじゃないよ」
「はあい」
わたしの手を離し、女の子は勢いよく駆けていく。
元気いっぱいの子どもたちが我先にと遊具に取りつく様子を遠巻きに見やる。
以前と変わらぬ見習い先生の役割に懐かしさをおぼえながら、わたしはマフラー越しに白い吐息をついた。手の平に冷えた鉄さびの匂いを帯び、歓声をあげながら夢中で雲梯にしがみつく子どもたち。その様子は、あの昭和55年にいっしょにすごした、りんごみたいにほおの赤いおちびちゃんたちとなにも変わらない。
教室が再開して数ヶ月。
部屋に溢れる子どもたちの活気に導かれるように、わたしはまたその世話をするようになった。
最初はブランクがあって少しとまどったけれど、すぐに慣れた。しがみついてくる子を抱っこしたりおんぶしたり、おむつを替えたり、大声をあげて叱りつけたりすることも、もう苦ではなくなった。
べつに、お母さんに頼まれたわけじゃない。
子どもはいつの時代もそこにいるってわかったからだ。
子どもはいつでもどこでも同じなんだ。
透子ちゃんはそこにいる。
時代ごとに呼び名を変え、姿を変え、性別を変え、齢を変え―――、
とっこちゃんはいつだってそこにいる。
だから寂しがる必要はない。
だって、会いたい時はいつだって会えるんだもの。
ほら、そこに。
(そうだよね、とっこちゃん……)
おかっぱ頭の女の子の面影をそっと胸に抱いたとき、「ねーちゃん先生も入ってっ」と、男の子がジムの上からふんぞり返って言う。鬼をやれというのだろう。その言いぐさにどこか既視感をおぼえて「ようし」と遊具に近づいたときだった。
「ん?」
ふと気配を感じてわたしは振り返った。
見ると小さな女の子が佇み、こっちを見ている。全身黒ずくめの、スカーフを丸いあごの下で結んだ女の子だ。
わたしははっとした。
(いつか会ったイスラム教徒の女の子だ)
「…………」
たぶんお母さんに着せてもらったのだろう。もこもこに着ぶくれし、短い腕でお腹を抱きしめるようにしながら、女の子は遊具にしがみついて歓声をあげている自分と同じ年頃の子どもたちを一生懸命見つめている。
拒まれる悲しみすらまだ知らないその無防備な姿に、わたしは軽くひるんだ。が、今度は迷いはなかった。
「こんにちは。今日さむいね」
わたしはその子にゆっくり近づくと、声をかけた。
女の子は少しびっくりしたように黒々とした宝石のような瞳でわたしを見上げた。ぷくっとしたかわいい子だ。
「それ、いいね。おかあさんに編んでもらったの?」
わたしはその子がしている毛糸の手袋を指して言った。お手製だと思って訊ねたのだが、女の子はスカーフごと首を横に振った。
「ちがう」
「どうしたの?」
「しまむらでかった」
「ふ、ふうん……」
わたしはやむなくうなずいた。そんなわたしたちのやりとりを、子どもたちは遊びを止めてじっと見つめている。
「一人?」
女の子は答えない。
「お名前は?」
「エリフ」
「よし、エリフちゃん。おねーちゃんといっしょにあそぼっかっ。みんなといっしょに」
「うん」
こっくりうなずく女の子の手を握る。
ほら、この感触!
その小さな手を引いて、わたしは子どもたちの輪にむかっていきおいよく駆け出した。
『ミクと時のひなた』 完
『ミクと時のひなた』 清野静 @seiseino
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