第90話 終章


 12月の札幌は肌に痛いほどで、とんとんと思わず足踏みしたくなるような底冷えのする外気が街全体を包んでいる。

 このまま真冬日が続けば、降雪はじきに根雪に変わるだろう。街は白一色に埋め尽くされ、クリスマスを迎え、年が明けてお正月、そして雪祭りの季節がやってくる。今年もさぞ賑やかになるにちがいない。たくさんのイルミネーションが街頭を飾り、雪像は凍てつき、大勢の観光客がやってきて―――。

 その頃、わたしはどう変化しているのだろう?

 今より上手に笑えるようになっているのだろうか。今より明るく朗らかになってる? この胸の喪失感や思い出は? 今も心の淵で揺れているこの哀しみは潮が引くようにいずこかに消え去っているのだろうか。

 わからない。

 でもいい。

 もうわたしは知っているから。

 過去に何があったのかを。自分の成り立ちを。

 どんな思いを授かって生まれ、どんな時の中で育ち、自分の大好きな人たちがどんな生涯を送ったか、わたしは全部見た。

 背が伸びて、もう少し大人になったら……ううん、もっと勉強して、自分の文章が書けるようになったら。

 一度、この半年間に体験したことをノートにまとめてみたい。(だってあんなにすごい体験をしたんだもの!)

 そして、いつかもっと素敵な女の子になれたら。

 だって、わたしは―――。

「…………」

 言葉にできぬその思いをそっと抱きしめ、わたしは軽く身震いした。そして傍らの友達にむかって言う。

「ね、何か食べていかない? 瀧屋行こっか」

「えーっ。イヤよ。行くんならちがうところがいい」

 まるいおでこを風にさらし、カーチャがぷっとむくれる。

 二人並んで南一条通の交差点にさしかかったときだった。傍らのカーチャが言った。

「見て、ひな。雪ミクの電車よ」

 その声にわたしは通りに目をむけた。その視線の先で、雪ミクのラッピングが施された路面電車がすぎていく。

 粉雪が舞いしきる中、いつもとは異なるかわいい冬Ver.の衣装に身を包んだ雪ミクちゃんは道行く人々の目を惹きつけながらすすきのの方へとむかっていく。

「わー」

 この時期おなじみのカラフルなデザインのラッピング車両にカーチャは声を上げた。

「かわいいね、雪ミク。一度乗ってみたいなあ。ね、ひな」

「うん……」

 あいまいにうなずきつつ、わたしは舗道からその市電の姿を目で追った。つと脳裏に37年前、あれにお母さんと優くんの三人で乗った記憶が甦る。

 あんなに新しい立派な電車じゃなかった。進むむきは逆だったし、もっと丸っこい、くすんだ緑色の、古くさい電車だった。走るたびにごとごと音を立て、カーヴするときは長いつり革が一斉に揺れ、車体を斜めに傾がせるような……。


(優くん)


 突然涙がこぼれ、わたしは唇を震わせた。

 この交差点……。

 そう、確かあの停留所から乗ったんだ。「チンチン電車」と言ったっけ。三人で乗り、途中で降りた。赤い長靴を履いていたとっこちゃんが歩き疲れておんぶをねだり、それを背負い、ふうふう息をついている優くんの横を、わたしも肩を並べて歩いた―――。

 あの日、わたしは確かに両親といたんだ。

「―――……ぅ」

 ふいにありったけの哀しみが胸に押し寄せ、わたしは膝を折った。嗚咽と共に涙が溢れる。

 この時代に戻ってきた日、豊平川の橋のたもとで泣きじゃくって以来、ずっと止まっていた涙……忙しさにかまけ、ずっと忘れていたはずの、もうとっくに乗り越えたと思っていたはずの哀しみが奔流となって胸を浸し、わたしは激しく喘いだ。

「ど、どうしたの!? ひな」

 立っていられず、崩れるようにしゃがみこんだわたしを見て、仰天したようにカーチャが声をかける。わたしは無言で首を振った。そしてほおを濡らす涙の熱さを自覚しながら足掻くように心に願う。

 会いたい―――。

 あの男の子に。

 堰を切ったように溢れる涙の中、喉を突きあげる想いに耐え、わたしは歯を食いしばった。嗚咽があとからあとからもれ、肩が震える。

「ひな、だいじょうぶ? 泣かないで」

 突如として泣き出したわたしをカーチャがおろおろと支える。

 怪訝そうに周囲の人々が立ち止まり、視線を投げていく中、自分が泣きそうになりながら懸命に声を励ますこの親友のぬくもりに抱かれ、わたしは涙に濡れた顔を上げた。

 曇った視界と降りしきる雪のむこうで雪ミク電車はゆっくりと遠ざかってゆく。

「ミク、泣くな」

 優くんが笑顔で言う。


 いつもと異なる純白の衣装に身を包んだ冬のミクちゃんは、やっぱり美人さんに見えた。




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