第38話 第2章 ミク―――1980



 神宮前の沿道にはすでにたくさんの人が出ていた。

 例祭を見にきた見物客とともに併設されたお祭り会場を訪れた家族連れの姿で舗道は溢れ、円山公園の外苑は人の渦となっている。

 優くんが背伸びして言った。

「うわ。こりゃすげえな。ミク、先に神社の方に行こうか」

「うん」

「とっこ、はぐれるなよ」

「はあい」

 わたしたちははぐれないように左右からお母さんの手をしっかり握り、人混みを縫って奥の境内にむかって歩き出した。ちょうど太鼓の奉納ほうのうが始まったのか、夕暮れの大気を震わせるように遠くでどんどんという勇壮で力強い和太鼓の音が響いてくる。

 北海道神宮は明治の初めに新政府によって奉斎された官幣大社かんぺいたいしゃだ。当時、蝦夷地えぞち開拓の判官の任に就いていた佐賀藩の島義勇よしたけという人が現在の円山に神社を建立し、祭祀さいしの場を定めた。聞けばこの人は明治天皇の信頼も厚い大変立派な人物で、札幌を本府と定めたりと北海道でいろいろな業績を残した人らしい。けれど明治七年の佐賀の乱で江藤新平と共に新政府に対して反乱を起こし、刑死した。梟首きょうしゅされたという。

 そんなようなことを歩きながら訥々と話すと、優くんはすっかり感心して目を丸くした。

「お前すげえなあ。俺、そんなこと全然知らなかった」

「や、わたしも最近まで知らなかったんだけど……」

 あの物知りの探偵さんの影響で札幌の歴史に興味を持ち、ちょっとだけ図書館で調べてみただけだったわたしは、褒められ逆に恥ずかしくなって赤面した。どうも優くんはわたしのことを頭から勉強のできる賢い子だと思いこんでおり、困るときがある。

 大きな鳥居をくぐると、参道に沿って大人が二人手を繋いでも抱えきらないような太い幹の巨木がまっすぐに立ち並ぶ。高く伸びた杉が藍に染まった空を指す中、舞の奉納が行われる境内にむかう。

 奉納されるのは三条神楽かぐらだった。

 三条神楽は出雲いずも神楽系に属する神楽で、例の岩戸開きの神話など古くから出雲大社に伝わる神事を演じる。その神楽が山陰から北陸地方を経て新潟の三条、さらに明治の頃にここ北海道に伝わったのが起源らしい。

 拝殿の大きな三角の破風を背後に、舞台の上で演じられる宮清みやきよめの舞や五穀捧ごこくささげの舞をわたしたちは会場の隅から見学した。

 すでに稚児舞ちごまいを終えたのか、白の表袴に薄緑色の袍を身につけた小さな男の子たちが舞台袖でお喋りするのを「しずかに、せえ」とおきなの面そのままの顔の宮司らしきおじいさんが一喝する。

 たちまち正座する子どもたちの面相がきりりと引き締まって揃うのを、わたしはどこか胸を打たれる思いでながめた。こんなに奉納の舞をちゃんと見るのは初めてだった。

(―――札幌の、夏だ)

 宵の迫る空の下、目の前の夕景がやけに鮮やかに目に映り、わたしは息を吐いた。なにもかもがはじめてだった。こうして境内にくるのも、浴衣を着るのも、誰かと並んで舞を見るのも。

 まるで光の粒子一粒一粒が今この瞬間まっさらに生まれ変わったように世界が鮮やかに色づいているのを全身で実感しつつ、わたしは強く目をつむった。

 なにもかもが新しく、なにもかもが愛おしい―――37年前の夏。

「―――どうした?」

 優くんに声をかけられ、わたしは我に返った。

「ううん。なんでもない」

「少し歩くか。お祭りの夜店の方も見たいし」

「うん」

「ね、とっこも一年生になったら、あれ踊れる?」

 お母さんが、舞台を指して無邪気に訊ねる。

「踊れるわよ。たぶん……来年になったらね」

「とっこももう小学生か。早いもんだなあ。……よし、とっこ。にいちゃんが久しぶりにおんぶしてやるぞ」

「おんぶじゃなくてかたぐるま」

「かたぐるまか、よし」

 手水舎ちょうずやをすぎ、人いきれの中を穂多木神社の方へむかって桜並木を歩く。ほどなく人の流れがつかえたかと思うと、裏参道の緩やかな坂の両脇に露天や夜店が犇めくように並び始める。お祭り会場だった。

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