第39話 第2章 ミク―――1980
「わあー」
わたしは思わず声をあげた。
緑のエゾヤマザクラや八重桜の下、白い煙が渦巻き、いかにも食欲をそそりそうな食べ物の匂いが喧噪に乗って運ばれてくる。
焼きそばやたこ焼き、かき氷、チョコバナナなど食べ物のほか、金魚すくいや射的、水風船のヨーヨー、お面売り……むこうでもおなじみの出店の数々が軒を競うようにして並んでいる。
わたしは思わず心が弾むのを感じた。
(すごい。ひよこが売ってる……)
もっとも中にはあり得ない光景もあり、目を丸くするわたしの傍らで、優くんとお母さんはまるで兄妹みたいに連れ添っている。わたしたちは人の流れにたゆたうように夜店や露天を巡り、その雰囲気を楽しんだ。
「すげーな。ここのお祭りって。こんなに賑わってるなんて知らなかった」
「へんなの。地元民のくせに」
よそ者みたいな口ぶりにわたしは笑った。
「優くんはあんまりきたことないの?」
「一人できても祭りは面白くないしなあ。友達と中島公園の方しか行ったことないんだ。ガキの頃は親が忙しくて連れてってもらったことなかったし」
やがて人波を游ぐのに疲れたわたしたちは人混みから少し外れたソメイヨシノの麓にあるベンチに座った。
目の前を小さなせせらぎが流れている。
(浴衣を着てきて、よかった)
帯の崩れを気にしつつ、わたしは浅く腰を下ろした。慣れない和装のせいか、鼻緒が足の親指のつけ根に食いこんで痛んだが、それでも人前でまとう浴衣の背筋が伸びるような緊張感は心地よかった。
露天の賑わいはいよいよ盛んになり軒端が家族連れの姿でいっぱいになる中、わたしたちはお母さんを間にはさんで言葉を交わした。
「お父さんは……確かお医者さんなのよね」
「ああ。経営者だから偉いぞ。金持ちだしな」
「すごいね」
「すごいのは親だ。俺はすごくねえ」
優くんの口調は乾いていた。たぶん本当にそう思っているのだろう。
「俺さ、正直、たいして自分が頭がいいとは思えないんだ。だから病院の跡取りにはなりたくない」
「兄弟は?」
「歳の離れた弟が二人いるよ。七つと三つだ。俺よりずっと出来がいい。ちっちゃくてかわいいけどな」
優くんは屈託なく笑った。
「優くんは、どうしたいの?」
「まだわからねえ。自分がなにをしたいかはな。でも、本は面白いな。今『白痴』を読んでるけどドストエフスキーはいいな。滅茶苦茶おもしれえ」
「もうそんな難しいの読んでるの?」
わたしはびっくりして訊ねた。優くんはにやりと笑った。
「おう。この間読んだ『死の家の記録』と『悪霊』っていうのがおもしろかったからな。どんどん読んでる。お前に負けないように」
「わたしは……最近ぜんぜん読んでないわよ。忙しくて」
優くんはあいかわらずわたしのことを賢いと思っている。
「そういや、親父さん捜しはどうなったんだ。うまく行ってるのか?」
「探偵さんに捜すの手伝ってもらってる。黛探偵事務所っていうすごくちいさいとこ。でも、おかげで少しお父さんのことがわかってきたわ」
お父さんが山口県の萩市周辺の出身だと推測した探偵さんは、現在その前提で調査を進めていた。わたしが探偵さんの前で歌ったあの唱歌、あれは『
後世、「軍神」として讃えられた乃木
戦後の民主主義教育で生まれ育ったお父さんがそんな唱歌を諳んじられるほど記憶し、かつ出身地が「薩長土肥」のいずれかだとするならば、それは長、すなわち長州藩以外あり得ない……というのが探偵さんの推理だった。
探偵と聞いて優くんは感心したようだった。
「へえ。探偵か。すげーな。どんな人なんだ。シャーロック・ホームズみたいな頭のいい感じか?」
「う、うーん。それとはちょっと違うかなあ……」
アロハシャツを着て、いつも赤ペン片手に競馬新聞とにらめっこしている探偵さんの風貌を思い出してわたしは首をひねった。
わたしたちは立ち上がり、再び歩き出した。
陽が沈み、祭りはいよいよ本格的に賑わい出していた。参道に渡された緋と白の提灯に明かりが灯り、その下を大勢の雑踏が行き交う。幟は熱い夜気を孕んでふくらみ、屋台から昇る煙は人いきれと喧噪の中に溶けていく。
そのまま道なりに下り、緩い勾配にさしかかったときだった。
石の階段の前でわたしが一瞬
最後の一段を降りきったあともわたしたちは数秒間、手を繋いでいた。
指先越しに互いの肉体を感じ、わたしは耳が赤くなるのを感じた。見ると優くんも赤くなっているのがわかった。その手の感触をわたしはずっと忘れなかった。
露天の列の間を群衆に紛れて歩いていたとき困ったことが起こった。軒先で見かけたりんご飴が食べたいと、お母さんがわたしにねだったのだ。
「みくおねえちゃん、あれ買って。ね、買って」
「わたし、お金がないの」
お母さんに袖を引っぱられつつ、わたしは小声で言った。幼いとっこちゃんに飴を買ってあげたくても、わたしは自分の小遣いと呼べるものを持っていなかった。
「お、俺、出すよ」
優くんがあわてて言った。
「いいよ。そんなの」
「いや。買う。俺も食いたいから」
優くんはむきになって言いはると赤いりんご飴を三つ買った。わたしたちはそれを舐めながら歩き出した。
境内を抜け、お祭り会場から家路についたときだった。むこうから豊おじさんと節子おばさんが並んで歩いてくるのが見えた。
薄紫色の浴衣をまとったおばさんが遠くから手を振る。
「あー。いたいた。やほー」
「あれ。豊兄ぃ。節ねーちゃんも。どうしたの?」
「ミクに財布持たせるの忘れてたって、お母さんがね。だからあんたたち持っていってあげなさいって」
そう言って微笑むこの四つ年上のお姉さんを、わたしは胸苦しくなるような想いで見つめた。花の十七歳、その美貌とすらりとした清雅な浴衣姿を前に道行く人が羨望(せんぼう)と賛嘆のまなざしを投げていく。
「あとふたりの様子を見にな。でも、その様子じゃ問題なかったみたいだな」
おばあちゃんの気遣いにわたしは感謝した。
お母さんが身を乗り出して言う。
「あのね、とっこ、りんご飴買ってもらったんだよ」
「ていうか、なんで節ねーちゃんまで浴衣なの」
「こいつ、ミクに財布届けるってなっただけで、急に着替えるって言い出したんだぜ」
「あら。夏だし、いいじゃない。ミクの浴衣姿を見てわたしも着たくなったの」
豊おじさんの言葉に浴衣美人はつんと鼻を持ち上げて言った。
「今年は
「兄さんって失礼ね。だからもてないのよ」
二人のやりとりに笑い声がどっとはじける。わたしたちは下駄を軋ませ、ゆっくりと帰路についた。
ふとたまらなく家族の匂いがした。
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