第37話 第2章 ミク―――1980


 優くんとお祭りに行くことになったのは六月の中初めのことだった。

 誘ってくれたのは優くんの方だった。ある朝、わたしが流しで洗い物をしていると、共に台所に立っていたおばあちゃんが言った。

「優ちゃんが昨日来てね。今度の札幌祭りにミクを誘いたいんだけど、いいですかって聞きにきたよ」

「えっ」

 わたしは言葉をのんだ。

「あたしは「いいけど、一応本人に聞いてみないとわからないよ」って答えておいたけどね。あんたはどうしたい? 断った方がよかったかい? それともお祭りに行きたいかい?」

「い、行きたい……!」

 思わず濡れ手でエプロンの端を握りしめて即答するわたしを見やり、おばあちゃんは笑ってうなずいた。

「いいよ。楽しんでおいで。ただしあまり遅くならないようにね」

「は、はい」

 わたしは急に胸がどきどきしてくるのを感じた。そしてその日からあまり寝られなくなった。

 札幌祭りは北海道神宮例祭と言って、札幌にむかしからある代表的なお祭りのひとつだ。初日の宵宮よいみや祭から例祭、山車だし神輿みこしを担いで市内を練り歩く神輿渡御みこしとぎよまで三日間かけて行われる大がかりなもので、円山の神宮の境内はもちろん、会場は露天や夜店が軒を連ね、それを楽しむ家族連れの姿でいっぱいになる。

 2017年に暮らしていた頃は正直お祭りなんて興味が持てず、行くことも稀になっていたのに、この時代のお祭りはどうしてこんなに待ち遠しく、胸が高鳴るのだろう。

(……誘われたからだ。わたし、はじめて男の子に誘われたんだ……!)

 優くんが毎日顔をあわせているわたしにではなく、わざわざおばあちゃんを介して誘いを申しこんだことに、わたしは余計にどきどきした。おじいちゃんは「優坊は律儀な子だ」と笑っていたけれど……。

 いよいよ約束の日を迎える前日、わたしは節子おねえちゃんに呼ばれた。

「ミク、ちょっときな」

「なに?」

「いいから」

 部屋に招き入れられるなり、わたしはびっくりした。部屋の中央に折りたたみの衣桁があり、そこに美しい浴衣ゆかたがかかっている。

「こ、これ……」

「せっかくのお祭りだしね。浴衣を着ていきな。その方が気分も出るだろうし。これはおととし作ってもらったものたけど、ほとんど袖を通していないから」

「おねえちゃん……」

 節子おばさんはその美貌にすべてを心得ている、というように透明な微笑を浮かべてうなずいた。その気遣いにわたしは涙が出そうになった。

「さ、早くあわせてみよう。着丈も見なきゃいけないんだから」

 わたしは早速浴衣に袖を通してみた。

 それは生成り地にやや緑がかった青のアサガオの模様の浮いた上品な浴衣で、あわせて和柄の紺色の単衣ひとえ帯を締めてみると、姿見の中に別人が誕生した。

(なんだかカラーリングがミクちゃんみたい―――)

 わたしはいつもよりすらりと見える鏡の中の自分を何度となくあらためた。

「いいね。女の子はこれくらい綺麗にしないとね。せっかくのデートなんだし」

(デート……!)

 そうか、これってデートなんだぁ。

 そう思ったとたん、わたしはなにやら自分がこれまで立ったこともない広々とした地平の前に佇んでいるような気がして手が小刻みに震えるのを感じた。

 もっとも、その興奮は長くは続かなかった。例祭当日、わたしがおばあちゃんに手伝ってもらって浴衣の着つけをしていると、わたしがどこかにお出かけするのだと察したのだろう。小さなお母さんが自分もついていくと言い出したのだ。

「みくおねえちゃんどこいくの? とっこもいく」

「え、ええと……」

「あ、あのね、とっこ」

「いいかい透子、よくお聞き。ミクはね、今日は優ちゃんと―――……」

「とっこもいくっ」

 せっかくのふたりでのお出かけを邪魔させまいという気遣いからおばあちゃんはやんわりとたしなめたが、お母さんは聞かない。しまいにはべそをかいてわたしの腰にしがみつく。

 わたしは決心した。

「いいです。わたし、とっこちゃんを連れて行きます」

「しかし、それじゃあ、あんまり……」

「いいんです。三人の方がきっと楽しいし。優くんもわかってくれます」

 その優くんが迎えに来たのは夕方の四時すぎだった。

 事情を聞き、優くんは神妙な顔でうなずいた。こういうときの鹿爪らしい顔つきの優くんが、わたしは好きだった。

 こっちにきてから少し長くなった髪を結いあげてもらい、飴色のかんざしを斜めにす。最後に襟元を整えてくれた節子おばさんは鏡の中のわたしを確認して笑顔で言った。

「これでよし。男の子がみんな振りむくよ」

 そして耳元で小さく囁く。

「がんばりなっ」

「う、うん」

 わたしはうなじが赤くなるのを自覚した。帯に団扇うちわを挿し、玄関で赤い鼻緒はなおの下駄を履く。わたしは表へ出た。

 表では優くんが待っていた。

「おまたせ」

「おう」

 優くんはわたしを見た。そしてひとつうなずくと苦笑する。

「いいな、それ。なんかミクじゃないみたいだ」

「わたしはわたしだよ」

「そうだな」

 そう言うと優くんはそっと視線を外した。うなじの皮膚の下で血が鮮やかに亢進こうしんするのを感じつつ、わたしは俯いて優くんの傍らに進み出た。

「いいかい。二人とちゃんと手を繋いで、迷子になるんじゃないよ」

「気をつけていっといで」

 みんなの声に見送られ、わたしと優くんは暮れかけた空の下を並んで歩き出した。


 小さなお母さんを間に挟んで。






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