第3話 第1章 ひなた―――2017


 もちろん、わたしにだって言いぶんがないわけじゃない。

 てゆーか、このときのわたしの身体のどこを指で押したってたぶん言いぶんしか出てこなかったろう。「べつに好きでやってるわけじゃない」とか、「お金をもらっているプロじゃない」とか、「そもそも、わたし自身がまだ中学生にすぎないじゃん」とか、そういうまっとうな理屈はのちに一人きりになったときに山ほど頭に湧いた。と同時に、そんな理屈は全部なんの役にも立たないということもわたしにはうすうすわかってた。っていうのはそういうことだ。そこには言い訳は一切通用しない。悔しいけど誠司くんのママの怒りは正しいのだ。

 似たようなことは何度か経験した。というか、こうして子どもたちの側にいると、どうふるまうのが「正解」なのかわからなくなることがある。

 以前、これまた近くの公園で子どもたちを引きつれて遊んでいたときのことだ。自分の立場も忘れて全力でいろ鬼に興じていたわたしは、すぐ側に頭巾を被った全身黒ずくめの女の子がいることに気がついた。歳は五歳くらいだろうか。

(イスラム教徒の子だ)

 わたしははっとした。

 子ども用のかわいいスカーフ(あとで調べたらヒジャブって言うらしい)を丸いあごのところで結んだ女の子が黒々とした瞳を輝かせ、はにかんだような笑みを浮かべてわたしたちの方を見ている。たぶん、この近くに住んでいるの子なのだろう。

 仲間に入れてもらいたそうに佇んでいるその子を見たとたん、わたしはぎゅっと胸が締めつけられるような気持ちになった。でもわたしはその子に声をかけてあげることができなかった。その子の背後でその子お母さんらしいヒジャブ姿の女の人がスーパーの買い物袋を提げて立っているのを認めた瞬間、声をかけるのをためらってしまったのだ。結局、どうしていいかわからずどぎまぎしているうちにいつの間にかその子はいなくなってしまった。

 その夜、わたしはお母さんにそのことを話した。ああいうとき、どうすればよかったのか―――と。

「そうねえ。やっぱり声をかけてあげたほうがよかったかもね」

 お母さんはわたしの話を聞き終えたあと、言った。

「やっぱりそう?」

「でも忘れちゃいけないのは、ひなたはうちの子を預かってるわけよ。そして、そこにはお金が派生しているの。月謝をもらったぶんは必ず子どもたちを伸ばさないといけない。うちもボランティアでやっているわけではないの」

「う、うん」

 わたしはうなずいた。お母さんの言うことはわかる。うちに通っている子たちはみんな裕福だし、お金持ちが多い。でもじゃあ、うちの塾に通っている子どもたち以外は無視してもいいのだろうか?

「ううむ」

 その夜、わたしはなかなか寝つけなかった。

 たぶんあの親子はそんなに裕福じゃない。あのときだって、もしかしたらわたしたちの様子がうらやましくて見てたのかもしれない。あのとき、わたしにもう少し勇気があればあの子を仲間に入れてあげることができたのだろうか。あの一家は日本にはどうして来たのだろう。札幌でどんな仕事をしているのだろう。イスラム圏の子って頭を撫でても大丈夫なのかな。ヒジャブ越しに触っても失礼にあたったりしないのだろうか。抱っこしても平気?

 ひとつなにかしようとすれば、べつの何かが新たに発生する。世界はふくざつだ。へんなの。ちょっと前まで世界はもっと単純明快だったはずのに。

 震災。誠司くん。黒い頭巾を被ったほっぺの丸い女の子。


 わからないときは本を読むに限る。


 翌日、わたしがお父さんの書斎から見つけてきた『図解 よくわかるイスラム教』という本を広げていると、フットサルの練習から帰ってきた優希がやってきて言った。

「おおっ、めずらしい。ひなが本を読んでる」

「あんたが知らないだけよ。わたし、むかしはすごい読書家だったんだから」

「むかしっていつだよ。ぼくが生まれる前? 白亜紀? デボン紀? オルドビス紀ってことはないよね」

「お父さんが生きてた頃よ」

 言ってからわたしはすぐに後悔した。むかつくことがあったからって優希に当たることなんかなかったんだ。

 優希は今年の春から小学五年生になる。身長は年相応だ。

 超ナマイキ盛りで、『弟』という概念が持つあらゆる要素……要領のよさとかはしっこさとか甘え上手とかわがままとか、そうした諸要素を集めてこねくり回し、実体化させればそのまま優希となる。でも性格が優しいから最後は絶対に折れてくれる。

 このときもそうだった。「じゃあぼくよく知らないや」とやんわりと言うと、子犬みたいにソファーにとび乗り、手にしていた白い封筒をわたしに差し出す。

「はい」

「なによこれ」

「手紙。さっき郵便受けに入ってた。おねえちゃん宛」

「わたし?」

 わたしは首をかしげた。

 そして封筒をあらためる。宛先には「御形ひなた様」と目の醒めるような達筆でわたしの名前が記されている。すごく大人の字だ。でも差出人の名がない。

「なにこれ。めっちゃあやしいじゃん」

「お父さんの関係じゃないかな。昨日電話があったし。取材をさせてくれって。BSドキュメンタリー」

「優希、あなた電話出たの!?」

「でたよ。お母様はおられますかぁーって」

「またなの? もう。何度も断っているのに」

 わたしたちの会話を聞きとがめ、キッチンにいたお母さんが不満げな声をあげた。そして「いやね。また与那嶺よなみねさんに連絡しないと……」とぶつぶつ言う。与那嶺さんっていうのはお父さんの元・担当編集者で、お父さんが亡くなったあともなにかとわたしたち一家のことを気にかけてくれる人だ。

「またテレビの人来るの? うち、テレビに出る?」

 優希がわくわく顔で訊ねる。

「出ないわよ。あんなのは一度でじゅうぶん」

 七年前に交通事故で亡くなったお父さんは作家だった。生前は賞を取ったりしてそこそこ有名だったせいか、亡くなってしばらくたった今も時々こうしてテレビ局から取材が来る。お母さんはそれを蛇蝎のごとく嫌っている。前にそれを受けて塾が大迷惑を被ったからだ。以来うちではお父さんの取材の話は御法度になっている。

 ふと思い出したようにお母さんが言った。

「そうだ。明日の朝、あんたたちどっちか、『ひまわり』におばあちゃんの替えのシャンプー届けてくれる?」

「ぼく、あされーん」優希がすかさず叫ぶ。

「じゃあ、ひなた頼むね」

「なんでよっ。わたしばっかり」

 わたしはぷっとむくれた。

「だいたいこの間、ホーマックで一式買い揃えたばっかじゃん」

「洗面台にぜんぶ中身流しちゃったのよ。花瓶でお花を活けたかったらしいの。おばあちゃん、髪洗えなかったらかわいそうでしょ?」

 お母さんはおだやかに諭した。

 こんなとき姉は損だとつくづく思う。わたしは力まかせに名無しの封筒を郵便差しに突っこんだ。

 そしてその翌日、わたしは迎えることになる。



 あの日―――お母さんと誠司くんが死ぬ、あの運命の日の朝を。


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