第74話 第5章 ひなた―――2017
「探偵―――」
残りは言葉にならなかった。
口元を抑え、ぼうぜんと立ち尽くすわたしを見て探偵―――
探偵さんは……老人になっていた。
背は高く、あいかわらずの痩身で、体つきは昔とちっとも変わっていなかったけれど、時間は確実にこの人の上に流れていた。かつて若々しく喜怒哀楽を思うままに表現していたその顔には深い皺が刻まれ、髪は白いものが半ばを占め、不敵に瞬き、射貫くように鋭かったまなざしは角をなくしておだやかに鎮まり、深い哀しみに似た色が
「久しぶりだな、ミク」
探偵さんはわたしの前に佇むとはにかむように微笑んだ。そしてどこか眩しそうな目でわたしを見つめる。
「……もっとも、お前にとってはつい数日前のことなのかもしれないが」
わたしは答えられなかった。いったい探偵さんはいくつになっているのだろう……? 60歳? 65歳? その皺深い表情の中にかつての探偵さんの面影を求め、わたしは食い入るように目の前の老人をながめた。そして震える声で訊ねる。
「ど、どうして……―――」
「あの手紙のことか。37年もあればいろいろ調べる間はあるさ。忘れはしない。たとえそれがどんなに昔に受けた依頼であってもな」
その探偵さんの言葉に感極まり、とうとうわたしは目を閉じてすすり泣いた。そんなわたしを前に、探偵さんはわずかに閉口したようだった。昔と同じように。
「ああ。ほれ、泣くな。これをやるから」
そう言うと探偵さんは内ポケットから何かを取り出す。
色褪せ、ぼろぼろになった雪ミクのストラップ―――。それは、1980年を去るとき、わたしが探偵さんの事務所に書き置きと共に残してきたものだった。
「ば……ばか」
「へっ」
かつての皮肉っぽい、どこか露悪的な笑いを一瞬浮かべる探偵さんの表情に懐かしさをこらえかね、わたしはその胸に額を押しつけ、胴に腕をまわした。探偵さんの身体は細く、強く、そしてあたたかかった。おじいさんと女子中学生という組みあわせに道行く人たちがおどろいたように視線を投げていく中、わたしたちは固く抱きあった。
やがて抱擁を解き、わたしははるか頭上にある懐かしい顔を間近から見上げて言った。
「……探偵さん、年取ったね」
「だが会えた」
探偵さんは皺の中から笑った。そしてまるで壊れ物でも扱うようにわたしの肩に手を置いていたが、ふと片眉を上げて訊ねる。
「正直、今、敬語を使いたくなるのをぐっとこらえてるんだが、やっぱり使った方がいいかな?」
「ううん。そのままでいいよ」
「名前は? ミクか、それとも、ひなたちゃんと呼ぶべきかな」
「ミクでいい……」
初音ミク。わたしの名前。かつてわたしをそう呼んだ人々との思い出が甦ると同時に、一度返上したこの名を知る人間がまだいることに胸を揺さぶられながらわたしはつぶやいた。
「少し歩くか? 久しぶりだろ、こっちの札幌は」
「うん」
わたしたちは駅前通りの方にむかって並んで歩き出した。目の前には以前と変わらぬ公園の光景が広がっている。
「いつ帰ってきたんだ?」
「震災のあった日。地震の起こった直後にむこうに跳んで、その日の夕方にこっちに戻ってきたわ」
「そうか」
探偵さんがうなずいたところで、わたしは胸に抱いていた疑問……なぜわたしがこの時代に戻ってくるタイミングがわかったのかを訊ねた。わたしが過去に飛び、1980年のあの時代を体験したあとでなければ当然わたしは探偵さんのことを知らず、あの手紙をもらっても差出人が誰かわからなかったはず(事実そうだった)だからだ。
探偵さんはポケットに手を突っ込みつつ淡々と言った。
「あのハザードマップは平成29年度に市の危機管理対策課が製作したものだった。とすればあれを携えていた君は当然それ以降の時代から来たことになる。御形陽介が君の父親だとわかった以上、君の生誕日を調べるのは簡単だったし、2004年生まれの君が「自分は13歳だ」と言った言葉を信じれば、今年中に君が1980年に行き、戻ってくることは明白だった」
「季節は? 一年のうち春とは限らないわ」
「あのミクのストラップは今年の雪祭りで買ったものだろ? 年頃の女の子があの手の装飾を飽きずに身につけている期間は恋が冷める時間より短い。もっとも、手紙を出した直後にあんな大地震が札幌を襲うとは俺も思ってもみなかったがな」
わたしは口をとがらせた。
「根拠はそれだけ……? わたしが気づくまですごく待つことになるかもしれないのに」
「俺は四半世紀以上待った。この上待つことになんの問題もないさ」
思わず絶句するわたしに対し、探偵さんはわずかに表情をほころばせた。
「そんな顔するなよ。手紙を出してからは日曜の正午から一時間、あのベンチに座っているようにしていた。もっともここ数日は地震で散らかった事務所の片づけで忙しくてな、あやうく遅刻しそうになったが」
「まだ……探偵さんのお仕事をしているの……?」
探偵さんは無言で微笑み、なにも言わなかった。そして訊ねる。
「ミクのほうはどうだった? 家族は」
「お母さんが少し怪我したけど、みんな無事よ。今は弟と二人で見舞いに通ってる」
「そうか」
探偵さんはうなずき、沈黙が落ちた。
そのまま横断歩道を渡り、噴水の手前にさしかかる。ふだんは飛沫をあげながら宙に柔らかな弧を描く噴水の放物線は止められ、平らに鎮まった水面は鏡のように青い空を映している。
探偵さんが言った。
「……重嶺優について知りたいんだろ。君が去ったのちの、彼のその後の人生を」
「うん」
わたしはうなずいた。
「そうだな。どこから話すべきか―――。まず順を追って話していくことにするか」
探偵さんはその白いものが混じった顎髭を引くと、静かに語り始めた。
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