第49話 第4章 ミク―――1980
またもや胸がどきどきするのを感じつつ、わたしはその胸の高鳴りを懸命に押さえようとした。いけない。今はお母さんを試験に合格させることを最優先に考えないと。
わたしは冷静にそう自分に言い聞かせたが、それでもなんとなく気持ちが弾んでくるのはいかんともしがたい。朝ご飯のあと、いつものように台所でお茶碗を洗いながら鼻先に小唄を湧かせていると、おばあちゃんにからかうように言われた。
「ミク、どうしたんだい。いいことでもあったかね? いつになく機嫌がいいけど」
「う、ううん。べつに。なんにもないわ」
赤くなったわたしがあわてて首を横に振るのを見て、おばあちゃんは笑った。
「ま、なんにせよいいことだ。このところ、透子もあんたも根の詰めすぎだと思っていたからね」
「根の詰めすぎはわしらのほうだよ。若い鬼教官に絞られたあげく、頭の下げ方からあいさつまで一から直されてもうへとへとじゃわい。この間、囲碁会で内藤さんと顔をあわせるなり「久我先生、痩せましたね」と言われたよ」
居間で新聞を広げていたおじいちゃんが愚痴をこぼす。
「本当にね。まったく、あんなモダンでスパルタな指導法、いったい誰に教わったんだい? わたしゃもう、子ども相手に偉そうに説教するのは
「はは……」
お母さんから学んだ2017年度の最新のお受験ノウハウを惜しみなく伝えるわたしを、ふたりは面食らいつつも進んで聞き入れてくれた。お母さんの言葉によれば、ふたりとも子どもの教育にはあまり熱心ではなかったというけれど、わたしが思うに、内心はふたりともひそかにそれを望んでいたのだと思う。あの夏、娘の未来のために全力を尽くしてくれた祖父母の姿をわたしは忘れない。
札幌の秋は早い。
夏の終わりを待ちかねたように季節はすぐに初秋にさしかかり、気温は一気に下がった。朝夕に肌寒さを感じる日々が多くなり、おばあちゃんは和室に火鉢を持ちこんだ。おじいちゃんが机の前で
(もしこの試験に受かれば公立校へ進学するこれまでのお母さんの未来はなくなり、代わってまったくべつのルートが開けてお母さんの将来は変わる。そうすれば……)
札幌の震災で、誠司くんをかき抱いたお母さんが瓦礫の中に呑みこまれるあの未来もなくなる。
わたしはほっと溜息を吐いた。
そして思う。
いつの日かこの日のことを昔話としてお母さんに告げられる日は来るんだろうか。子どもの時分、台所に立つお母さんにその日あった出来事を語りかけたみたいに。あのねおかあさん、今だから言うけど、わたし過去にタイムスリップしたんだよ。小さいお母さんや若い頃のおじいちゃんやおばあちゃんにも会ったよ。お母さんを助けるの、本当にすごく大変だったんだから。でもなんとかうまくいったよ。結果的にお母さんの未来をちょっと変えちゃったけど、お母さん、全然気づいてないでしょ?
「…………」
夜、そんな会話を夢想しながら座敷でぼんやりほおづえをついていたとき、つと廊下に置かれた黒電話の音が響いた。近くに誰もいないようだったので、わたしは部屋を出て受話器を取った。
「はい、久我です」
わたしは「御形です」と言い間違えないように気をつけながら言った。すると受話器のむこうから低い、大人の男の人の声が耳に届いた。
「夜分おそれいります。節子さんおられますか」
「どちら様ですか」
この手の電話に本人がうんざりしているのを知っているのだけに、うんとイヤな声を出して断ってやろうとわたしが気構えたとき、節子おねーちゃんが息を切らして二階から飛んでくる。
その真剣な顔にわたしはいくぶん呑まれて言った。
「おねーちゃん。おでんわ……」
「ああ、ありがとう」
節子おねーちゃんは恥じらうように微笑んだ。そして受話器を受け取る。
「はい。節子です」
その雰囲気にわたしはそっと側を離れた。去り際に振り返ると細く白い指で受話器を強く握り、密やかな声で相手の人とお話ししているおねーちゃんの姿が目に映った。
その横顔は透きとおるようで、節子おねーちゃんがまるでいつもと違った人に見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます