第48話 第4章 ミク―――1980


 週末、天気が崩れて雨が降り始めた。

 その日、わたしは縁側に出て濡れ縁から雨に打たれる庭をながめていた。

 お母さんは幼稚園、おじいちゃんとおばあちゃんは朝から学校の説明会にそれぞれ行っており、わたしはめずらしく家に一人だった。

「…………」

 最近がんばりすぎた反動からか、わたしは少しぼんやりしていた。開け放った障子の縁にもたれ、裸足の両脚を木目の床板の上に投げ出す。その姿勢のまま篠突しのつくような雨に濡れそぼつ庭のアジサイをじっとながめていたときだった。


(―――探偵さん、どうしてるだろう)


 久しく忘れていた存在を思い出し、わたしは身じろぎした。そして背のひょろっとした無精髭の探偵さんの風貌を懐かしく思い浮かべる。

 探偵さんとはあれっきり会っていなかった。最後に会ったのは川の土手……確か地震が起こる直前のことだ。そうだ。探偵さんと別れたあの直後、わたしは一度未来に帰り、倒壊した自宅の前で優希と再会したのち、またこの世界に戻ってきたんだった。

 少しの間街を留守にすると言っていたけど、いったいどこへ行ったのだろう? わたしのことなど忘れてしまったのだろうか。

(お父さん……)

 軒に漂う濃厚な雨の匂いを嗅ぎ取りながらぎゅっとそれを握りしめたときだった。

 雨音が乱れ、庭にできた水たまりが一瞬、陰った。

 わたしは顔を上げた。

 見ると、庭先に傘を差した男の子が立っている。

 男の子はゆっくり近づいてくると傘の庇をひょいと持ち上げた。見慣れた人懐っこい笑顔がのぞいた。

「よう、ミク」

「優くん!」

 わたしは叫んだ。それから自分の姿勢に気づき、あわてて膝を揃える。

「元気か」

「う、うん」

 わたしは腰を浮かせた。それからなぜかその場に正座する。

「えへへー」

「どしたい? 急に笑って」

「ううん。なんでもない」

 なんだかすっかりうれしくなり、わたしは笑顔で首を振った。それから玄関にまわってくれるよううながす。だが優くんは「や、ここでいいや」と言うと、すぼめた傘の柄を一振りして飛沫しぶきを切り、縁側に腰を下ろす。

「やれやれ。すげー雨だな」

 優くんはまるでおじいちゃんみたいに庭先をながめながら言った。

「どうしたの? わざわざ」

「おまえがちっとも土手にこねえからさ。どうしたのかなあと思って」

 優くんは屈託なく笑って言った。わたしは赤くなった。

「ご、ごめん。その、最近ちょっと忙しくなっちゃって」

「なにかあったの?」

「う、うん。じつは……」

「ふうん。受験かあ」

 わたしは幼いお母さんが小学校受験をすることになり、自分がその手伝いをすることになった事情について説明した。この1980年にあっては小学校のお受験はずいぶんめずらしいことなのだろう。優くんは感にたえかねたようにうなずいた。

「そっかあ。とっこは頭いいもんな。でも、あんな小さいのに受験ってすごいな。俺なんか、ふだんの学校のテストでもひーひー言ってるのに。じゃあ、今はミクがとっこに勉強教えてるんだな」

「うん。わたしにやれることはそんなにないけど、でも、できるだけのことをしたいと思うから……」

「お前がいればとっこも心強いだろ。きっと合格するさ」

 何気ない一言だったけれど、その言葉は胸に沁みた。わたしは「うん」と微笑んだが、一方なぜか当の優くんは、まさに数学のテストで難問に直面した時みたいなむずかしい表情をこさえている。わたしは首をかしげた。

「どうしたの?」

「や、試験が近いんなら、お前もいそがしいのかなあと思って……」

「?」

「じつはさ、今度映画に行こうと思って誘いにきたんだ」

「映画?」

「うん。『スターウォーズ』っていうんだけど、今やってる『帝国の逆襲』っていう奴すげーおもしろいんだって。三丁目の東宝公楽で公開してるんだ」

「ああ……スターウォーズ」

 耳になじみのあるタイトルにわたしはうなずいた。そういや去年、最新作をツタヤで借りて優希といっしょに見たような気がする。確か、かわいい女の子の主人公がライトセーバーを持って冒険するお話だ。

 ということはあれの前の作品はこの時代の作品だったんだ、と思いつつわたしは意気ごんで言った。

「わたしも行きたい!」

「ほんと? 時間、大丈夫か? 暇あるのか」

「なかったら作るもん。絶対に作るっ」

「やった。じゃあ、約束な」

 うれしそうにそう言うと、優くんは立ち上がった。そして傘を開くと「んじゃ、また連絡するわ」と言い置くなり、いきおいよく雨の中を駆けだしていく。あいかわらず気の早い男の子だ。

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