第66話 第4章 ミク―――1980


 わたしは言葉につまった。

 いったいどうやって別れを告げればいいのだろう。だが迷っている時間はない。ひるむ心を抑え、わたしはひといきに言った。

「ごめん。じつはお別れに来たの」

「お別れ?」

「うん。そのう、ちょっとここを離れなきゃならなくなって。それで……」

 あいまいに言葉を濁しつつ、わたしは懐を探った。そして優くん宛にしたためた手紙の入った封筒を取り出す。それは夕べ遅くまでかかって書きあげたものだった。優くんへの、いやお父さんへの、わたしからの精一杯のメッセージ―――。そこには、あのときの事故についてわたしの知りうる限りの情報が書かれていた。

 さらに例の蒔絵の貝殻を添えて優くんに差し出す。

「あのう、これ」

「なんだこれ」

 優くんはいぶかしむようにわたしを見た。

「お手紙よ。夕べ一晩かかって書いたんだ。あと、こっちは貝殻。なにがいいかなと思ったんだけど、わたし手ぶらでこっちに来ちゃったからなにも持ってなくて……。でも、これはこっちでずっと身につけていた、わたしにとっては大切なものなの。優くんにこれをあげる」

「まて。ミク。なんのつもりだ」

「だ、だから思い出の……」

「ふざけんな。こんなものいらねえ」

 優くんは怒って言った。

「それよりちゃんと説明しろ。ここを離れるってなんのことだ」

「せ、説明って。だからわたし、この街を離れなくちゃいけなくて……」

 わたしはしどろもどろに言った。

「いつだ?」

「も、もうすぐ……」

「引っ越しか。でもミクお前、ずっと親とはぐれてたんじゃなかったのか?」

「そ、そうなんだけど」

「どこに引っ越すんだ? 日はいつだ? 久我のおばさんの家を出るってことか? でもお前、そんなそぶりぜんぜんなかったじゃないか」

「そ、それは……」

 問いつめられ、わたしは言葉に窮した。優くんの疑問はもっともだった。こんなの、たとえ優くんでなくても怒る。でも、いったいどうすればこの男の子を納得させることができるのだろう―――?

 胸に暗澹あんたんとした想いが垂れこめ、わたしは絶望した。そして悲しく笑うとじりじりと後ずさった。

「ごめん、優くん。今までありがとうね。さよなら」

「待て」

 いきおいよく身を翻したわたしの手を優くんが取る。

「待てっ、ミク。お前、どこへ行くつもりなんだ。この街を離れるって、どこへ行くんだよ?」

「放してっ。わたし行かなきゃ。もう行かなきゃならないの!」

 手首を掴まれつつ、わたしはもがいた。土手の上でわたしたちはもみあった。

「だからどこへだよ。どこへ行くんだよ」

「み……未来」

 わたしは思わず口をすべらせた。優くんは唖然とした。

「はあ? お前、なにいってんだ」

「未来よ! 未来へ行くの。ミクは漢字で未来って書くんだよ。だからわたし、もう未来に帰らなきゃならないの!」

「は? お前、なにわけわかんないこといってるんだ? だいじょうぶか」

 優くんはあきれたようにわたしにむきなおった。そしてわたしをなだめるように言う。

「落ち着け。ミク。順に話せ。お前、そんなことを言いにわざわざここに俺を呼び出したのか」

「そんなことって、わたしにとっては滅茶苦茶大事なことだよ。そのためにわたしがどれだけ……ああ、もう、そんなこと言ってる場合じゃない。もう時間がないのよ。優くん、今までありがとう。ごめんね、急なことで。でもずうっと言い出せなくて。元気でね。風邪引いちゃ駄目よ。あと、けんかもだめだからね」

「待て。ミク。お前ほんとにどこか行くのか」

 ここにきて、ようやくわたしの様子がただならぬことに気づいたのだろう。優くんの顔色が変わる。

「なんでだ。急にどうしたんだよ。せっかくこれからいろんなことが始まるんじゃないか。とっこの受験だって、お前、あんなにがんばってたろ」

「そ、それは……」

 幼いとっこちゃんのことを言われるのはつらく、わたしは心の痛みに顔をゆがめた。それから言い訳がましく言う。

「わ、わたしにはもう時がきたのよ。それだけよ」

「だから、「時」ってなんのことだよ」

「ここにいられる猶予ゆうよよ。すごくたのしかったけど、みんなに会えてうれしかったけど、でももういかなきゃ。わたし、むこうで待ってる大事な人がいるの」

「大事な人ってだれだ? むこうってどこだよ」

「ああ、優くん。お願い。わかって。ほんとにもう時間がないのよ。わたし」

 残された時間を気にしつつ、わたしは身悶えするように言った。だが優くんはあくまで突っぱねる。

「わかんねえ、なにひとつわからねえ。お前の言うことは全部ちんぷんかんぷんだ」

 そしてなおも言葉を求める。

「順番に説明しろ。ミク。なにか困っていることがあるのか。お前を困らせているなにかが、お前にはあるのか」

「そ、そんなのないよ」

「すごく困ってるじゃないか。なんだか、すごく言いにくそうにしてる」

「そ、それは……」

「俺たち友達だろ。それでも言えないのか」

「ごめん」

「ひょっとして……親か」

 わたしははっと息を呑んだ。

 優くんはぎらぎらしたまなざしでわたしを見、やいばのように鋭く問うた。

「お前の親のことなんだな。そうなんだな!?」

「親……」

 わたしは言葉を失い絶句した。一瞬、涙ぐみそうになる。どうして。どうしてわかるの。切っても切れない親子の絆。

 わたしはまっ青になって言った。

「そうよ! 優くんと同じ。わたしもずっとお父さんを探してた。そして見つけたの。父親が誰か、どこにいるかわかったのよ。変よね。こんなにあちこち捜してたのに、もう七年も捜していたのに、お父さんはこんなにも身近なところにいた。わたしって、いっつもこう。どうしてこういつもそそっかしいんだろう―――。でもそれがわかった以上、もうここを去るしかない」

「だからどこへだよ。どこへ、何をしに行くんだよ。親父が見つかったからって、なんで札幌を去らなきゃいけないんだ。お前はまだ、なにひとつ語ってくれてないぞ」

「仕方ないじゃないっ。語れないんだもの。語ったら駄目なんだもの。語ったら壊れちゃうんだもの!」

 き止めていた感情が思わずほとばしり、わたしは叫んだ。

「わたしだって話したいわよ! なにもかも全部話したい! わたし、精一杯やったわ。お母さんを助けたくて、一生懸命がんばった。うまくいくかすごくこわかったけど、でも死に物狂いでやった。はじめは右も左もわからなくて怖くて泣きそうだったけど、やるだけのことはやろうって。でも時々もう二度とむこうに戻れないかもしれないって、もう二度と優希やお母さんやおばあちゃんに会えないかもしれないって思って、そしたら、こわくて、不安で、心細くて……」

 涙が溢れ、手の甲で涙をぬぐう。

「優くんはわたしがこんなこと好きで言ってると思ってるの? わたしが好きでさよならを言ってると思ってる? わたしだって……」

 一瞬声につまり、わたしは嗚咽を殺して先を続けた。

「わたしだってこっちの世界にいたい。ずっとこの時代にいたいわよ。わたし、1980年が好き。はじめはびっくりしたし、ちょっとイヤだったけれど、でもだんだんこの時代のことが好きになった。野暮ったい服装も、野暮ったい髪型も、破天荒なエネルギーも、みんなの生き生きした瞳も、あいかわらずお化け屋敷みたいなお家も、和室の床柱の傷も、美人の節子おねーちゃんも、ハンサムな豊おにいちゃんも、やさしいおじいちゃんも、あっという間に好きになったわ。テレビ塔の色も、青くて広いお空も、丸くてごとごと動くチンチン電車も、全然変らない大通公園の花壇も、みんな好き。一生全部忘れないくらいに大大大好き。でも、わたしは行かないと駄目なの! 初音ミクはもうおしまい。もう未来に帰る時なのよっ」

「ミク」

 優くんは学制服の裾を風に揺らしたままぼうぜんと立ち尽くしていた。そして今初めて見るような眼でわたしを見ると、声を絞り出すようにして訊ねる。

「前からずっと思ってた。お前は……いったい、誰なんだ?」

「それは―――……」

 一瞬、ひるんだあと、わたしがおびえたように口を開きかけたときだった。


 ふいに、みしりと足元の地面が揺れた。


 初めはほんのかすかに、次第に腰に響くほどはっきりと。大地が横揺れに震え、土手全体が沈みこんでいくような錯覚にわたしは思わずよろけた。

「地震だ」

 さっと顔を引き締め、優くんが言った。

「えっ」

 わたしは愕然とした。

 見ると近くの立橋の橋桁がきしきしと軋み、遠くの電柱の間に渡された電線がまるで瘧でも起こしたように孤を描き、激しくたわんでいる。

 16時10分。新冠・静内を震源とする地震が札幌に到達したのだ。

(そんな。―――わたし、まだ……)

 幼稚園へ立ち寄ったせいだ。

 お母さんと最後のお別れをしたため、予定よりここにくるのが遅かったんだ。

 自分が思っていたよりもはるかに時間がすぎていたことに気づき、わたしは後悔のほぞを噛んだ。が、もう遅い。

 時がきた。

 そう思った瞬間、わたしはとっさに優くんの腕を取った。その顔を間近に見上げ、短く叫ぶ。

「優くん、ありがとうっ。わたしもう行くね」

「ミク! お前……」

「みんなによろしくね。優くんも元気で」

 そして先刻優くんが頑なに受け取ろうとしなかった手紙と貝殻を力任せにその胸に押しつける。

「これ、あとで読んでっ。あなたが持っててっ」

「ちょっと待てミク。まだ話は終わってないぞ。もうちょっと話を―――」

 つっぱねようとした優くんの手が、突然宙で止まる。

 その視線を辿り、わたしははっとした。見ると、わたしの指先がうっすらと大気に透けている。指だけではない。手も、腕も、胸も、脚も、わたしの身体はまるでいつかの病院の駐車場のときと同じように白く淡い光に包まれ、夕暮れの土手の空気の中に溶けこもうとしていた。

 わたしはぼうぜんとする優くんの手を満身の力をこめて握りしめた。そして口元にぎこちなく笑みを浮かべる。

「ありがとう、優くん。優くんのおかげでわたし、いっぱい学んだよ。自分のこと、家族のこと、ルーツのこと……。それまで少しも知ろうとしていなかった自分の出自に、わたし、生まれて初めて気づかされた」

 片手を伸ばし、わたしは優くんのほおにそっと手の平を触れた。一瞬、優くんが身を固くする。

 わたしは最後の感触を確かるように中指でその頭髪とほおを撫でた。ふと、なにかを悟ったように優くんの目が大きく見開かれる。

「……ミク。俺たち、またどこかで会えるのか……?」

 優くんが唇を噛んだ。

「会えるよ。きっと会える」

「ほんとか? ほんとうに会えるのか?」

「会えるよ。絶対に会える」

「ミク、俺、お前が好きだ。俺はお前が好きなんだ」

「知ってるよ。そんなこと知ってるよ。子どもの頃から知ってた。わたしはいつだってお父さんの一番だった」

「ミク、」

「どうもありがとう。優くんに会えて、ほんとによかった。いっしょにいてくれて、ありがとう。今も、むかしも、そして―――」


 未来も。


 一筋、涙がほおにこぼれた。それをぬぐわぬままにわたしは言った。

「さよなら。わたし行くね。わたし、ずっと優くんを待ってる。また会える日を。どうか怪我しないで。それから―――」

 その瞬間、わたしたちの時間は断ち切られ、



 わたしは未来へ跳んだ。




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