第2話 第1章 ひなた―――2017
お母さんを求める子どもの泣き声って聞いたことある?
子どもが泣き叫ぶ声の威力は絶大だ。ことに母親の膝から引き離された瞬間におちびちゃんが上げる声ったら脳天を貫くような破壊力に満ちている。
わたしは年中この声を聞きながら育った。
「幼児教育」っていうのは乳児から幼稚園くらいの子どもたちにいち早くお勉強を教えることを指す。いわばおちびちゃん専門の塾のようなものだけど、この仕事に携わる人間は皆この声を聞くことから一日が始まる。
お母さんは早くからこの仕事について現場経験を積んだのち、お教室を開いた。お母さんの専門はいわゆる「お受験」という奴で、パパとママに思う存分甘やかされて育った子どもたちをたった半年で見違えるように鍛えあげ、意中の私立小学校に合格させることに対して絶大な手腕を持っていた。聞けば、亡くなったおじいちゃんもむかし学校の先生だったらしいから、うちの家業と言えないこともない。
お母さんは子どもの扱いにかけては天才的だった。
その子の懐に飛びこんで心を掴むのが抜群にうまく、どんなに悪ガキも五分もたたないうちにお母さんのことが大好きになり、この見知らぬおばちゃんの言うことに従わずにはいられなくなるのだ。それはほとんど魔法に見えた。
お母さんは自分が経営者だけあって好き勝手にやっていた。もっとも子どもの数に比して人手はいつも足りず、いつの頃からかわたしがお母さんの手がまわりきらない子どもたちの世話をするようになった。もちろんこんな面倒くさいことをわたしが望んでたわけじゃない。でもこの過酷な環境はわたしの歳に似合わぬ「子育てスキル」を鍛えあげることになった。
でも、そんなわたしだってたまに失敗はある。
『
あれは確か誠司くんがうちに入って翌々週のことだ。その日、わたしは誠司くんの手を引いて近所の公園に行った。仕事帰りにお迎えにきた誠司くんのお母さんがわたしのお母さんと話をしている間、退屈した誠司くんが外で遊びたがったのだ。
公園は広かった。中央には
「ねーちゃん、鬼ね」
さっさと人に鬼を押しつけて誠司くんは身軽に遊具を駆け上がる。誠司くんはこっちの暮らしにも慣れたようで以前に比べてずっと口数が増えた。
ひとしきりいっしょに遊んだあと、ふとわたしはこの子が去年あの大地震を体験していることを思い出した。
「ねえ誠司くん」
「うん?」
「この間の熊本の地震、怖くなかった?」
誠司くんは首をかしげてわたしを見た。そして質問の意図を探るように沈黙する。
「あんまり」
「そんなに揺れなかったの?」
わたしは馬鹿な質問を繰り返した。誠司くんはわずかに俯いて視線を外した。
「少し、ゆれた」
「そう……」
なんとなく言葉を呑んだわたしをよそに、誠司くんは遊具と遊具の間に架かった木板の吊り橋に足をかけると、「ねーちゃん見てて」とその小さな身体で器用にバランスを取り、左右の手すりに一度も触れることなく一気に駆け抜ける。
「おー、すごい」
わたしは感心して手を叩いたが、これがよくなかったのかもしれない。誠司くんは男の子らしい虚栄心に駆られて「つぎ、ここから着地ね」と高さ二メートル半はある鉄製の昇り棒の降り口の縁に立つなり、いきおいよく身を躍らせた。
「あっ」
止める間もなかった。
躊躇なく宙を飛んだ誠司くんの身体はまるでゴムまりのように地面の上で弾んだ。両脚で踏ん張った誠司くんは一瞬ぐっと持ちこたえたかに見えたが、ぐにゃりと膝が崩れ、頭から前につんのめって転がる。
「誠司くん!」
わたしは駆け寄り、その身体を抱え起こした。
誠司くんは照れくさそうに立ち上がると「……痛、て」とぴょんぴょんと片足跳びで跳ねていたが、すぐに尻餅をついた。その顔は苦痛にゆがみ、こめかみからみるみる血が流れ始めた。わたしは血の気が引いた。
わたしは誠司くんを抱っこし、急いで家に戻った。家の前ではちょうど玄関口でお母さんと誠司くんのお母さんが立ち話をしているところだった。
誠司くんを担いだわたしの姿を見るなり、誠司くんのお母さんの顔色が変わった。
「誠司!?」
そして誠司くんをわたしの手からもぎ取るように引きはがしてその怪我をあらためると、きっとむきなおるなり右手で勢いよくわたしのほおを打った。
「あなたが誠司に怪我をさせたの? いったいどういうつもり!?」
「……すみま……せ……ん」
わたしは消え入るような声で謝る自分の声を聞いた。恥ずかしさといたたまれなさに思わず涙がこぼれそうになったとき、猛然と誠司くんが面を上げた。
「ねえちゃんは悪くない! ねえちゃんは悪くない!」
「誠司」
誠司くんのお母さんはびっくりしたように誠司くんを見つめた。
その後、すぐに病院で見てもらう手配をするという母に対し、自分の車を使うからいいときっぱり断り、誠司くんのお母さんは帰っていった。
「大変申し訳ありませんでした。本当になんとお詫びしてよいか」
お母さんは何度も謝り、わたしもその横で地面におでこがつくくらい深く頭を下げた。やがて車が走り去り、わたしはのろのろと頭を上げた。怒りも屈辱も感じなかった。ただ先ほど打たれたほおの音が耳の奥でじんじんと鳴り、顔全体が燃えるように熱かった。
「気の毒したね。ひなた」
家に戻ったあと、お母さんはおだやかに言った。
そしてぐいとわたしの肩を掴むとわたしの顔をじっとのぞきこむ。
「でもね、生徒に万一、回復不可能な怪我を負わせた時点で、そんな噂が立った時点で、うちの教室は終わるの。いったい誰がそんな危ない塾に自分の子どもを入れたいと思う?」
お母さんに掴まれた肩がやけに痛かった。
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