『ミクと時のひなた』

清野静

第1話 第1章 ひなた―――2017 




 春になって、新しい子がやってきた。


 「誠司くん」と言って、小学一年生の男の子だった。三月に家族で札幌に引っ越したらしく、ネットで手頃な塾を探していたとき、たまたまうちの教室を見つけたという。

 お母さんは引き受けることにした。

「やめといたら? 今でも子どもの数、いっぱいいっぱいなのに」

「や、取る。これも縁だしね」

 お母さんは短く答えた。わたしはげんなりした。だって教える先生の頭数が決まっている以上、そのしわ寄せは絶対どこかに生まれるし、とすればそれは巡り巡ってわたしのところにまわってくるに決まってるもの。

 誠司くんは熊本からやってきた。

 熊本は熊本城と加藤清正で有名だ。

 お父さんが教えてくれたところによれば、加藤清正は朝鮮半島で虎退治をした豪傑で、握ったげんこつが口の中に入るくらい身体が大きかった。はじめて論語の講義のお勉強をしたとき、『もっ六尺りくせきノ孤ヲ託スベク、以テ百里ノ命ヲ寄スルベク、……君子人カ君子人ナリ』というくだりを聞いたところで感動のあまり身体が震え、その拍子にお城がぐらぐら揺れたという。

「……ホントかしら? おうちが揺れるなんて」

 はじめてその話を父に聞かされたとき、わたしは首をかしげた。人ひとりがわくわくしたくらいでお城が震えるなんてあるかしら。三匹のこぶたに出てくる藁葺わらぶきのおうちじゃあるまいし。

「そうだね。でもそれぐらいの心も身体も大きな人物だったんだろう」

 お父さんは煙るような微笑を浮かべて言った。そして納得しかねているわたしの頭にぽんと叩くと髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。

 その熊本城は今はもうない。

 去年の地震で石垣が崩れ、無残な姿になってしまった。天守閣の瓦がいっぱい落ちている映像をテレビのニュースで見た。身体のおののきだけでお城を揺らす清正公せいしょうこうも今の熊本城を見たらさぞ悲しむことだろう。

 もっとも、さっきのエピソードは伏見城での出来事らしいけれど。

 お父さんももういない。七年前に交通事故で死んだ。

 誠司くんの家は全壊はまぬがれた。しかし赤紙を貼られてしまったので住めなくなってしまった。赤紙っていうのは『応急危険度判定』のこと。信号機みたいに赤、緑、黄色の三色がある。誠司くんちの場合、母屋の梁と桁が斜めに傾いで支えをなくし、屋根はその上に頼りなく載っかっているだけという状態になったため、ひとまず母方の実家のある北広島に移り、その後札幌に引っ越すこととなったわけだ。

 九州から北海道へ。

 本州と四国を挟んで日本の端から端だ。

 誠司くんはハンサムな男の子だった。狩衣かりぎぬを着せ烏帽子えぼしでも被せたくなるような品のある子で、あきれるほど無口だった。初日に母親に連れてこられたときにはにこりともせず、まるで昼間に灯のともった庭先の石灯籠でも見るような目つきでわたしを見た。

「ひなた、頼むね。面倒見てあげて」

「うえー……」

 いつものようにお母さんに無茶ぶりされ、わたしは閉口した。そりゃそうだ。アウェーの地に乗りこんできた気まんまんの子と数時間いっしょにすごさなきゃならないのってけっこーきつい。

「こんにちは。誠司くん。おねーちゃんとあそぼっか」

 こっちが笑顔で話しかけてもろくに返事もしないでそっぽをむいているこの男の子を持てあますこと三十分、わたしはふいにこの子の両脇に手をさし入れると、逆ジャイアントスイングの要領で「うりゃー」と思いっきり振り回してやった。誠司くんはびっくりして目をまんまるにしていたが、これが功を奏したのだろう。以来わたしにくっついて離れないようになった。

 やれやれ。

「ひなはすごいよ。わたしなんてぜんぜん無理」

 そう言って微笑むのは友達のカーチャだ。

 本名は瀧口カーチャ・バラノフスカヤという。

 お母さんはロシア人で、まるで妖精みたいな美人だ。小三のとき、「外人やーい。銀髪やーい」とカーチャのことを冷やかしていた男の子の顔面にわたしがパンチをお見舞いして以来、ずうっとなかよしだ。でもわたしはカーチャの方がすごいと思う。カーチャはお店に立つ。カーチャのお父さんはすすきのの駅前で『瀧屋たきや』というラーメン屋をやっていて、カーチャは時々お店の手伝いに駆り出されるのだ。わたしは、頭に白いタオルを巻いてあつあつのラーメンを運ぶカーチャの姿が好きだった。そんなときのカーチャの顔はきりっと引き締まり、背筋が伸びていてすごくかっこいい。

「やだよ。むかしは看板娘とか言われて喜んでたけど、いまはもうイヤ。だいいち、労働基準法違反じゃないの。うちの親、超むかつく」

「いいじゃない。白いタオル頭に巻いてかわいいんだもの」

「いやよ。クラスの男子に見られて恥ずかしい。なのに、しょっちゅうくるんだもの。あの子たち」

「みんなカーチャのことが好きなんだよ」

 ぷっ、とかわいらしくほおをふくらませるカーチャを見やってわたしは言った。その透き徹るような白い肌や愛らしい丸いおでこ、顔の輪郭に沿ってまっすぐ流れる月の光を集めたみたいな輝く銀髪を見れば、男の子でなくともカーチャのことを好きになってしまうだろう。

 お互い親に便利使いされる感じだったからわたしたちはよく話した。もっとも、わたしにしてもカーチャにしてもべつに本気で不平をもらしていたわけじゃない。家の事情も、親の仕事についてもそれなりに理解していたから。

 でも、気のせいだろうか。

 この春中学生になったあたりからわたしはだんだんお母さんから厳しく監督されるようになった。


 そう。


 まるで、修業時代が終わったかのように。





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