第56話 第4章 ミク―――1980
車のハンドルを握るお父さんの横顔に、時折光が流れる。
助手席に腰を下ろし、わたしは運転席のお父さんにむかってしきりに学校で会った出来事を話している。すでに窓の外は闇に包まれ、夜の帷が降りている。飛ぶようにすぎていくオレンジの街灯。瞬きすれ違う、ヘッドライトの光。
「ひなたがもう少しおねえさんになったらいいものをあげよう」
「いいもの? いいものって、なあに」
「いいものはいいものさ」
わたしのおてんばを優しくたしなめたあと、なにかくれるといった言葉に思わず身を乗り出すわたしに、お父さんはちょっともったいぶって笑って答える。そのどこか丸みを帯びた、低く優しい声。
「お父さんがずっと大切にしていたものだ。本当はひなたがもう少し大人になったらあげようと思っていたんだが―――……」
その瞬間、巨大な二つの
やがて砕け散ったフロントガラスの粒を飴玉のように口に含み、助手席のシートとボンネットの狭間に小さく固定されたわたしの耳に、周囲の静けさを破るようにしとしとと降り始めた雨の音、そして遠くのパトカーの音が鳴り響く。
…………
……
…
ずっと忘れていた子どもの頃の事故の記憶―――。
そうだ。
思い出した。
お父さんが亡くなったあの交通事故のとき、わたしは同じ車に乗っていたんだ。お父さんの運転する車の助手席にわたしはいた。遠出したわたしを空港まで車で迎えに来たお父さんは家にむかう帰り道、事故に遭った。お父さんが運転する車に対向車線の大型トラックがまともに突っこんできて、車は大破した。わたしは小学一年生だった。
気がつくと真っ白いベッドに寝かされていた。
枕元に、赤い目をしたお母さんとその腕に抱っこされた幼い優希がいた。頭を打ったほか、わたしに外傷はほとんどなかった。お父さんが亡くなったと知らされたのは、頭の包帯が取れたあとのことだ。聞いた話によれば、事故現場の路上には左にハンドルを切った跡が残されていたという。たぶんお父さんは助手席のわたしを守ろうとしたのだろう。
その記憶に、わたしは蓋をした。
忘れたかったんだ。
お父さんの死を間近で経験したことを、きっとわたしは心に留めておきたくなかったのだろう。その事実に蓋をして、もう何年もたったのち、記憶は思わぬ形で甦った。こうして生きているお父さんのぬくもりを身近に感じられる場所で。
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