第55話 第4章 ミク―――1980


 どうしよう。わたしは子どもの頃のお父さんとずっと会っていたんだ。この時代に跳んだ最初の日から今日まで、会って、言葉を交わし、お散歩し、そして……。

(なんで……!)

 足元ががらがらと崩れゆく中、優くんの顔が思い浮かび、わたしは駆けながら唇をゆがめた。

 そして想う。

 優くんはお母さんと結婚するんだ。ううん、ちがう。のちにお母さんになるあの小さなとっこちゃんとお父さんは結婚し、そしてわたしと優希が生まれるんだ。

 どうしよう。知らなかった。知らなかった……。

 お父さんはどういう経緯でお母さんと結婚するのだろう? わたしは必死に想った。いつ、どこで、どんなタイミングで、今の優くんと六歳のお母さんは引かれあい、恋をし、結ばれるのだろう? 何年後にそうなるの? いまだ青年ですらなく、大人ですらなく、作家ですらないお父さん―――あの優くんはいったいどんな風にして御形陽介となり、書斎にこもり、頭をうんうん掻きながら原稿にむかい、わたしを膝に抱いて居眠りをするあの優しいお父さんになるんだろう―――?

 心が千々に乱れる。そんな中、ふいに怒りがこみ上げてきて、わたしは心の中で探偵さんを呪った。

 探偵さんの馬鹿。

 なんで調べちゃったのよ。こんなこと、わたしは知りたくなかった。あなたは確かに有能よ。でもわたしが求めていた答えはこんなのじゃない。こんな思いをするためにわたしはあなたの事務所を訪ねたんじゃない。知らなきゃよかった。知らなきゃよかった。こんな結末、知らなきゃよかった。お父さん捜しなんて頼まなければよかった……!


 なんで……なんで、優くんなの!?


(優くん―――)

 つと、今公園でわたしを待っているだろう優くんを思い浮かべ、わたしは目を潤ませた。ごめんね。映画あんなに楽しみにしてたのに。わたし約束すっぽかしちゃった。わたし知らなかったの。知らなかったのよ。ごめん。優くん、ごめん。ごめん。ごめん。

 心の中で何度も何度も謝りつつ、わたしは脇目も振らずに駆けた。どれくらい走ったろう。やがて息が尽き果て、足のもつれたわたしは近くにあった欄干らんかんの柱に倒れるようにしがみついた。

「…………」

 そこは見知らぬ橋のたもとだった。

 荒い息の中、わたしは顔を上げた。汗にまみれ、一世一代のつもりでしたおめかしは見る影もなくなっていた。

(帰らないと)

 わたしは熱っぽくなった頭の奥でぼんやり思った。

 でも、帰るってどこに帰ればいいのだろう。いったい、どの時間軸にわたしの家はあるのだろう。お父さんとお母さんのいる世界―――わたしが知るあの二人がいる世界はどこに行けばみつかるのだろう。

 わからない。

 もうなにもわからなくなっちゃった。

 のろのろと顔を上げ、歩き出そうとしたときだった。

 左の土手の端に男の子が立っているのに気づき、わたしは息を呑んだ。今まさに想っていた相手の姿が目の前にある。わたしは凍りついた。

「……っ」

「ミク」

 優くんはわたしと同じくらい息が荒れていた。おそらく全速力で駆けてきたのだろう。わたしに追いつきほっとしたような表情を浮かべると、膝に手をつき、ぜいぜいと呼気を整える。

「ど、どうして……」

「お前がちっともこねえからさ、いったんおまえんちまで戻ろうと引き返しかけたら、橋むこうをお前がすげーいきおいで駆けていくのが見えたから」

 優くんは笑った。が、涙に濡れたわたしの顔を見るなり顔色を変える。

「なにか……あったのか?」

「う……」

 その言葉に応じかけたところで、わたしははっと身を引いた。この男の子の優しさに気持ちが和んだ瞬間、優くんの正体を思い出したのだ。胸にずきんと痛みをおぼえてわたしは一歩後ずさった。

「ミク……?」

「ご、ごめんなさい……」

 涙がひとしずく、ほおを伝った。

 約束をすっぽかしたにもかかわらず、優くんは少しも怒ってはいなかった。その瞳はわたしのことを心配する以外なんの余念もなく、その優しい心根が逆に今のわたしにはつらかった。わたしは顔をくしゃくしゃにゆがめて笑った。

「き、き、今日はごめんね……。行けなくて……」

「ミク、なにがあった?」

 異常さに気づいたのだろう。優くんが顔色を変えて訊ねる。わたしはまた一歩後ずさった。

「ご……ごめん」

「ミク、言え」

「ごめん」

「待て、ミク」

「お願い……」

 わたしはいやいやするように何度も首を振ると、逃げるように駆け出した。橋のたもとに立ち尽くす優くんを残して。




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