第51話 第4章 ミク―――1980


 近くのスーパーで買い物をした帰り道、目に映った夕映えの美しさに絶句し、わたしは立ち止まった。なだらかな民家の屋根を黄色く照らし、紅に色づいた鰯雲いわしぐもはまるで空を耕したうねの跡のように長く棚引き、空の果てまで続いている。

 街が闇に包まれる直前の一瞬の混淆こんこう―――学校帰り、何度も何度も繰り返し見た、光と空が描き出す時のうつろいをながめているうちに突然気持ちが溢れ、わたしは涙をこぼした。大粒の涙がほおを伝い、わたしは嗚咽おえつをこらえてしゃがみこんだ。

「―――どした?」

 傍らで自転車を歩きながら押していた優くんが立ち止まったわたしに気づき、振り返る。わたしが泣いているのを見て優くんは仰天し、おろおろと訊ねる。

「ミク、ど、どうした!? なんかあったのか」

「ううん。ちがうの。ただ、世界ってすごく綺麗なんだと思って」

「せかい?」

 恥ずかしそうに涙をぬぐうわたしの言葉に優くんはきょとんとした。たぶん、わたしがなにを言っているのかさっぱりわからなかったのだろう。それでも男の子らしく、なんとかわたしを慰めようと懸命に言葉を紡ぐ。

「泣くなよ。元気出せ」

 わたしを起きあがらせると、優くんは遠くを見るように面を上げた。そして、胸の中の語るに足る言葉を探し出そうとするように訥々とつとつと言う。

「俺さ、このところ毎晩本を読んでいるんだ。前にお前に図書館で勧められた文学作品は全部読んだ。実際、この三か月でずいぶん読んだと思うよ。世の中には面白い物語がたくさんあるんだな。全然知らなかったよ。時々思うんだ。俺、こんな感動を知らないで今まで生きてたんだなーって。そう思ったらなんかすげえ悔しくてさ、さらにいっぱい読むようになっちゃった。この間、親にあきれられて言われたよ。お前、最近なにがあったんだって」

「……けんかは? もうしてない?」

 わたしの問いに、優くんはにやっと笑った。そして落ちかけた西日の刺すような逆光の中、くせっ毛を風に揺らして言う。

「ああ。もう止めた。痛えしな。今はもっとべつのことがしたいよ。というか、お前の側にいて気づいたんだ。俺って、ほんとなにも知らないなって。俺は無学なだけじゃない。無知だったんだな」

「優くん……」

「だからもっと本を読まねえと。そしたらさ、急に毎日が楽しくなってきたんだよ。いますっげーたのしい。そんで俺、もっと勉強しようと思うんだ。もっと俺は一からいろんなことを知り直さなくっちゃならない。そうしたら、自分がただの医者の穀潰しの馬鹿息子じゃない、何者かになれるんじゃないかって、どっか遠い場所へ辿り着けるんじゃないかって……そんな風に思うようになったんだ。だから―――」

「だから―――?」

「だから……えーと、お前は泣くな」

 熱い想いのおもむくままに言葉を紡いだところで、自分の言葉がちっともわたしへの慰めになっていないことに気がついたのだろう。優くんは一瞬妙な顔をしたが、やがて自分で笑い出した。「なに、それ」と急におかしくなり、わたしも吹き出した。

「うん」

 わたしはそっと涙をぬぐった。

 そして話が繋がらないついでに言う。

「今度、映画にも行くしね」

「おう。そうだな。早く来週になればいいのに」

 からりと笑って優くんが言う。

 その笑顔を、佇まいを、声や仕草を、わたしはどんなにうれしく思っていただろう。この1980年―――。まるで鉢植えの植物みたいに自分が生まれる以前の世界に放り出されたわたしにとって、このタイムスリップ初日に出会った男の子は、いつだって心をほがらかにしてくれる存在だった。

 週末が近づき、いよいよ優くんとの約束の日となった。

 その日、おばあちゃんは朝から病院へ行く支度をしていた。最近、豊おじさんにしつこく咳がついていたので、嫌がる本人を引っぱって無理矢理検査についていくことにしたのだ。

「やれやれ、そのくせ車は病人に運転させて同乗するんだもんな」と笑うおじさんがジャケットに袖を通し、キーを片手に車庫へむかう横で、わたしも身支度を調える。

 節子おばさんから貸してもらった白のワンピースをまとい、三面鏡の前で何度も髪をとかす。ピンの髪留めで前髪をちょっとだけ持ち上げ、精一杯のおめかしをするわたしの様子をお母さんが不思議そうにながめている。

「みくおねいちゃん、どこいくの?」

「優くんと映画に行くのよ」

「とっこもいきたい」

「今日のはちょっとむずかしいから、また今度ね」

 身繕いを済ませて透子ちゃんの頭を撫でると、わたしは玄関から「いってきまあす」と声を上げた。そして秋の陽気の中、通りへ駆け出す。

(―――ちょっと遅れちゃった。でも、急げば間にあう……)

 待ちあわせ場所である大通公園にむかって息を弾ませて駆ける。いつもの角を曲がったとき、つと前方の路肩に見覚えのある車が一台、停まっていることのをわたしは気がついた。どこか愛らしく丸みを帯びたクリーム色の車体。その脇に背の高い男の人の姿がある。

 わたしははっとして立ち止まった。

「―――よう」


 目の前に探偵さんが立っていた。


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