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辞書に手を伸ばした男は、少し
年の頃は三十代半ばといったところだろうか。細い銀縁の丸眼鏡をかけていて、長髪をうしろで束ねているようだ。
はっきり言って、明らかに浮いている。大学図書館は一般にも開放されているとはいえ、平日昼間のこの時間に地下の閲覧室で勉強しているのは、二十歳前後の若者だけなのだ。
男は理子が『哲学大辞典』に視線を落としているのに気づいて言った。
「哲学に興味がおありですか」
「……え、まあ……」
「そうですか。それは嬉しい」
そう言って、男は、先ほどのためらいがちな微笑みとは比べものにならない、ヒマワリのような笑顔を咲かせた。それから『哲学大辞典』をひょいと持ち上げて、自分の机へと戻った。
理子は動揺を抑えながら、ふらふらと、なんとか自分の座席に座った。驚きで心臓がまだバクバクしていた。
(……いつから隣にいたんだろう……全然気づかなかった)
隣の机とは板で仕切られているから、男がなにをしているのかはまったく分からない。ただ本をめくるような音と、なにかを書いているような音が、なんとなく雰囲気で伝わってくるだけだ。
さらに恐ろしい想像が理子を襲った。
(……このひと、私のあとをつけていた?……)
男はあらかじめ理子に目をつけ、隣の座席に席をとっており、理子が一階の参考図書コーナーに『哲学大辞典』を返しに行くあとをつけたのではないか。そして、理子が棚に戻した辞書をすぐに持ち出し、理子が階段で地下一階に戻るよりも前にエレベーターで先回りして、あとから閲覧室に戻った理子に声をかけてきたのではないか。
(……なんのために?……)
わざわざそんなことをするなんて、声をかけるきっかけを作ったとしか考えられない。理子が『哲学大辞典』を返すのを見て、哲学をだしに理子に近づこうとしたのではないか。
「あのー、スミマセン」
「ひゃっ!」
突然、頭の右上から降ってきた声に、理子は思わず声を上げた。勉強している学生たちが一斉に理子の方を見る。それから彼らの視線はすべて、机の仕切りから身を乗り出して理子を見下ろしている男に向けられた。非難の眼差しの集中砲火に気づいていないのか、それともまったく意に介していないのか、男はそのままの姿勢で言葉を続けた。
「もしかして、この辞書、お使いですか」
「……え……いえ、大丈夫……です……」
「あっ」
「?」
「もしかして、あなたでしたか」
「……え?」
「ああ、いえ、別にいいんです。お邪魔しました」
そう言うと、男の頭はしゅっと板の仕切りの下に引っ込んだ。
(……「あなたでしたか?」……なにが私だったんだろう……)
理子は呆然と隣の座席との仕切りを見つめていた。会話によって男への恐怖は少し薄らいだものの、頭のなかは完全にぐちゃぐちゃになり、なにも考えられなくなってしまった。
(……あ! やばい、時間が……)
時計はすでに四時五分前を指していた。いますぐ荷物を片付けて、柳井の研究室に急がなければならない。
(……落ち着かないと……大丈夫……理子の理は、理性の理よ……たぶん……)
棚から持ち出した研究書は返さずに、一階の自動貸出機で貸出の手続きをし、理子は図書館をあとにした。そして水たまりの雨水をときどきぱしゃぱしゃと跳ね上げながら、柳井の研究室がある九号館に走った。
息を切らして、四時ちょうどにドアをノックした理子を待っていたのは、柳井の思いもよらない言葉だった。
(続く)
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