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「知らないで欲しかった……私に、ですか?」

「そう言うと大げさに聞こえるかな……でも」


「浅田の掟」の話題に顔を曇らせていた大道寺が、あらたまった表情になって続ける。


「終わらせないといけないと思っています。僕も教員としてここに戻ってきたわけですから」

「先生、浅田さんはご存知なんですか」

「だいぶ上の先輩ですから、直接は存じ上げません。ですが『掟』のことはもちろん知っています。学年の近い先輩から聞きました」

「終わらせないといけない、ですか」

「そうです。修士論文で外国の先行研究を無視していいはずがありません。ただ……」


 ここまできっぱりと断言してきた大道寺が、少し言いよどむ。


「『浅田の掟』が言いたいことも分かるのです」

「?」

「修士論文はそれほど分量が多いわけではありません。二次文献を意識しすぎると、論文そのものの主張が薄くなってしまいます。ですから、研究生活のスタートとなる修士論文では、自分ならではの視点を突き詰めて欲しい、という意味だとすれば、『浅田の掟』も理解できます……まあ、かなり好意的な解釈ですが」


 そう言うと大道寺は、理子が開いている浅田の修士論文に右手を伸ばす。「ちょっとお借りしていいですか」と言ってしばらくページをめくったあとで、大道寺はなにかに気づいたように何度かうなずいた。


「……なるほど、そういうことだったんですね」

「……なにがですか?」

「『浅田の掟』の由来です……僕も浅田さんの修士論文ははじめて見ましたので、知りませんでした」

「由来? この修論で分かるんですか?」


 大道寺は論文を理子に返して腕を組む。


「うーん、僕の思いこみかもしれませんが……それに、もし当たってたとしても……やはり東雲さんは知らなくていいと思いますので、お伝えしません」

「……そう、なんですね……なんだかモヤモヤします」

「この論文を詳しく見てみれば、東雲さん自身が気づくかもしれませんね」



 大道寺が共同研究室を去った頃には、午後7時を回っていた。理子も「浅田の掟」のことはひとまず忘れて論文の整理をてきぱきと済まし、ほどなくして帰途についた。


 整理をしていて気になったことがあった。。つまり、その年のM2エムニは浅田ただ一人だったということだ。前後の年の論文は、複数が保存されていた。


 実は、理子は浅田の修士論文をこっそり拝借してきている。


(……詳しく読んでみたら分かるかも、って先生言ってたよね……ほんとに論文泥棒になっちゃったな……ちゃんと返すけど)


 自宅に帰った理子は、もう一度、さきほど気になっていた「先行研究レビュー」の箇所を読み始めた。ページ下部の脚注に挙げられている外国語の二次文献の書誌情報を追っていると、理子の理性が「気づいてくれよ」と言わんばかりにピクピクと振動する。


(……ん?……ドイツ語やフランス語の文献が引用されてはいるんだけど……p. 2とかp. 3?……ページ番号が全部ひとケタ……もしかして浅田さん……)


 論文で文献を引用する際には、


 著者名、『書名』(あるいは「論文名」)、(論文の場合は収録された雑誌と巻号)、出版社(発行元)、刊行年、引用ページ


 を明記しなければならない。専門分野によって多少の形式の違いはあるが、以上の情報を明示していなければ、最悪の場合、その論文には「剽窃ひょうせつ」の烙印らくいんが押される。読者が情報のソースに到達できることが保証されていなければならないからだ。


 研究という営みが、先人たちの足跡の列に自分のものを加える作業である以上、どんな論文であれ、これまで行われてきた同じテーマの研究の「ブックガイド」の性格をもっていなければならない。


 理子の直感は、脚注に挙げられた一冊の本の情報によって、ある種の確信に変わる。この注にはこう書かれていた。


「この解釈についてはGilles Deleuze, Nietzsche and philosophy, The Athlone Press, 1983, p. 14以下を参照。」


 挙げられているのは現代フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの『ニーチェと哲学』である。


(……なんでドゥルーズが?……やっぱりそうなのか……)


 理子は静かに浅田の論文を閉じる。


(続く)

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