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 哲学専攻の納涼会当日。時計は午後5時半を回ったところだ。6時から始まる納涼会に向けて、準備を担当する理子たちM1エムイチの学生は、助教の丸山と一緒に、料理や飲み物のセッティングに余念がない。


 会場になっているのは、共同研究室のすぐ隣の部屋である。九号館のなかでは少し広めの部屋で、普段の授業に使われることもある。


 すでに各テーブルには、色とりどりのピンチョスや1.5センチ幅にカットされたバゲット、そして、買い出し部隊がターミナル駅のデパ地下で仕入れてきた洋風オードブルの大皿が広げられている。壁際に寄せられた長机の上では、ブルゴーニュの赤ワインのボトルが行儀よく整列している。飲むのに最適な温度ではないが、さすがに大学にワインセラーがあるはずもなく、こればかりは仕方がない。


 もちろん暑い最中の宴会だから、共同研究室の冷蔵庫はキンキンに冷やされた瓶ビールやスパークリングワインで破裂しそうになっている。これらは会が始まる直前に理子たちが取りに行く段取りだ。


 プラスチックのコップや紙皿をテーブルに並べるM1の男子たちに、丸山が抜かりなく指示を飛ばす。


「春山くん、こっちにもお皿あった方がいいんじゃない?」

「……あ、あの……」


 声をかけられた男子が気まずそうに口ごもる。


「ん? どうした?」

「……僕、夏川です……」

「あ! ゴメンゴメン。夏川くんだった、申し訳ない」


 丸山が苦笑しながら頭をかく。どうやら、まだ理子の同期たちの区別がついていないらしい。


 別のテーブルでは、ほかの二人がペットボトルの緑茶とオレンジジュースを均等な間隔で配置していた。特に言いたいことがあるわけではないが、助教としてのプライドを守るため、丸山は二人に声をかける決心を固める。


 こっちに夏川がいるわけだから、あっちの二人は残りの春山、秋田、冬木のいずれか二名である。つまり、このうちのどれかの名前を呼べば、三分の二の確率で片方が返事をするはずだ。


「おほん……秋田くんさぁ、こっちにもお茶ちょうだい」


 声をかけられた二人が動作を止めた。彼らのポカンとした表情で、丸山は自分が賭けに負けたことを知る。


「……秋田くんなら柳井先生の研究室に行きましたけど。ワインを差し入れてくださるみたいで。あ、お茶、どうぞ」


 あっけなく博打ばくちに破れ、ろくな返事もできないままペットボトルを受け取った丸山に、理子がそっと近づいて耳元で助け舟を出す。


「丸山さん! ほら、専門!」

「……お、おお、それがあった」


 丸山はもう一度、軽く咳払いをする。夏川はこっちにいて、秋田はこの部屋にいないから、あっちの二人は残る春山と冬木で間違いない……どっちがどっちなのかは分からないが。


「……二人は最近どう? 研究はかどってる? 春山くんはフッサールだよね。冬木くんはフォイエルバッハだったっけ」


 春山と冬木はちょっと顔を見合わせてから、敬意の混じった安堵あんどの眼差しを丸山に向ける。研究対象は、始終つきあっている「相棒」のような存在だから、それを特定されただけでも、きちんと自分が認識されていると感じるには十分なのだ。


「はい、まあまあ順調です……フッサールは資料体コーパスが多いので大変ですが」

「僕も、のんびりやってます。フォイエルバッハやってる人はあまりいませんし」


 二人の応答に、丸山は「そうかそうか、よしよし」といった具合に満足気な微笑みを返している。助教としての威厳はかろうじて保たれたようだ。その様子を見て、共犯者の理子もほっと胸を撫で下ろす。


 緊張がほぐれたこの瞬間を逃しちゃだめだ――――そう確信した理子が、勇気を振り絞って口を開く。


「……私、『浅田の掟』のこと考えたんですが」


 同期たちと丸山が一斉に理子に視線を向ける。以前、「浅田の掟」のことで口論になった三人はみな、困惑が皮膚にそのまま貼り付いたような微妙な表情をしている。彼らは理子が浅田の論文を調べていたことを知らない。


「『掟』のルーツを知る鍵は…………夏川くん、あなたです」

「えっ、僕?」


 さっき春山と間違われたばかりの夏川は、自分が唐突に特別な存在になったことに明らかに動揺していた。


(続く)

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